せいか

地下鉄(メトロ)に乗ってのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

地下鉄(メトロ)に乗って(2006年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます

3/3、テレビ(J:COMテレビ)で放送されたものを視聴。
2006年当時の東京の地下鉄が一応メインどころとして映るのだけれど、駅のホームって時代を遡るほど雰囲気がいいよなあと改めて思った。2006年でもやはりそう思うものなのだなあ。
浅田次郎の原作小説は未読。

内容は、少年時代に父と確執を起こして家を飛び出したことがきっかけで兄が死んでしまってからというもの、自身も父親がいよいよ嫌になり、大人になったときには裕福な家庭ではあった実家とほとんど縁を切った状態で自立していた主人公が、ある日、駅の地下鉄で「先生」と再会したときからタイムスリップができるようになって兄の死の原因を目の当たりにしたり、いろいろな時代の父親と交流していくことでその確執を解消するという話。まさか時間SFものとは思わず、地下鉄を舞台にしたヒューマンドラマか何かだと思っていたので、そういうふうに話が展開していくものでびっくりした。
タイムスリップ先も主に大戦間もなく〜大戦終了直後くらいだとか、昭和の東京オリンピック辺りになる。割とこのへんの雰囲気はややなあなあで済まされている気はするが、金にがめついという印象で固められていた父親のその若かりし日を形作るのに重要な時代がこの辺にあるので、一種の戦争映画という趣きもあるにはあると言える(薄味だが)。
時間SFとしては、主人公がそうして過去と干渉することによって変化が生まれているのか、その干渉が起こったものとして現在の時間軸が既にあるのかというのが曖昧にされたままどちらもありみたいな感じで話が作られているところがあって非常にそこが気になった。主に後者で作られてはいると思うけれど、なんか前者の要素みたいなのもあるような素振りもあり(兄の死の辺りとか)みたいな。そのへんも結局後者だったのがミスリード的にされてるだけなのかもしれないけれども。父親も未来の息子と接触したことは段々分かってきた状態ではあったのだろうみたいなところではあるけど、それでも確執を埋められずに結局はそのまま主人公の現在軸においては死線を彷徨い、死んでしまうわけで、そのすれ違いが今にはっきりと報われるわけでもない(この切ない余韻は私も好みではあったけども)。

あと、そういう話の中で主人公の不倫相手の女性も一緒にタイムスリップするようになるのだけれど、彼女は実は主人公父の不倫相手の娘で、主人公父は自分のことを想うことはしてくれなかったのだと思いこんでいたのだけれども、そんなことはなかったのだと知ることで彼女もまたその確執を解消することになる。のだが、話の中で主人公と不倫関係のみならず近親相姦までやってしまっていたことを知ってしまった彼女は葛藤を重ね、父親に対するこの救いの直後、身重だった母と共に階段を転げ落ち、流産させて自分は死ぬことを選び、この世に生まれなかったことにする。ちなみにこの辺に関してはとにかく主人公が異様に鈍いため、彼女の葛藤も選択にも何も干渉できないままである。
この辺も上記の時間SFの立ち位置としての微妙さになってもいるのだけれど、最初から生まれなければよいのだということでなんなら母親も最悪死ぬ手段を取るとか、いくら直前に何も知らない母親が、子供が親よりも愛する人を選ぶことが幸せであるという言質を取った後とはいえ、これまでの自分の人生にあった母親とのやり取りも何もかもを母親から奪うことを選ぶということでもあって、この話の流れからは単なる胸糞になっているので、観ていて、うへーって感じであった。現状の自分が破滅した状態にあるからっていろいろ無茶し過ぎじゃない? 現在の父親と母親を無視し過ぎじゃない? その後のこと考えなさ過ぎじゃない? ……とか思うけど、彼女がそれで良しとしたのなら、まあそれでいいのだろう。それらさておき、未来の自分は死んでおいたほうがいいから生まれる前に殺してしまおうというのが実行できるのっていいよな。ドラマがあるというか、ロマンがあるというか。私も可能であればしますわと思いましたって感じであるだけど、母胎というものがあるので同じことするしかないならしないかもしれないけども。

長男を亡くした直後の父を前に主人公は自分はあなたの子供で幸せでしたと告白するのだけれど、このへんも結局(その後の父親はその報いを時の経過と共に理解していって過ごしてたのだろうけど)なんかちょっと観てて怖いものがあったというか。ここで二人の確執は既に氷解していたのがこの後は時間の渦に飲み込まれてこの地点に戻るまでまた彷徨い続けるみたいなその収束までの救いのなさのある救いみたいなのはやはり好きだけど、言いしれぬ気持ち悪さがあるよなあというか。好きなんだけど暗いものがある。
ラストに答え合わせ的に戦後間もなくの時代で父親に渡しておいた腕時計を現代まで大事に保管していてくれたということも分かるのだけれど、あの時点の父親からすれば目の前の謎の男の物をそこまで大事に取っておく理由もないようなきがするのだけれど、実は出兵前に会っていたのも覚えてたりしたのか何なのかとはちょっと思うけど、そのへんはご自由に解釈してくださいという余白なのかなんなのか、こちらの読解力の問題だろうけど、なんだかどうにも掴みかねるものはあった。目の前の謎の男をいつもちゃんと実は認識してたのだろうし、年を取ると共にその正体も理解してはいたのだろうなあという方向で理解はしているけれども。それでもやっぱり破綻は避けられなかったのだなあでもある。
破綻と言えば、不倫相手の娘の死産というのが普通はバタフライエフェクト的にもっと効果ありそうだけれど、ほんとにぽっかり彼女だけが世界からいなくなって、デザイナーとして働いていた会社のその商品内容にもたぶんろくに影響が出ていないというのも不思議ではある。父親のほうは主人公と会うことで今後の成り上がりを決めてそうして話が収束していくのに。

あと、主人公の兄の死に関し、家を飛び出した兄が家に電話したときに母親から実は自分の父親は違う人で、今の父親はそれでもおまえを愛して、前の父親みたいに東京の大学に行ってくれることをのぞんでいるんだよというのを明かすのだけれど、少なくとも電話口で言うものではないことを言うこの母親が息子を殺したようなものなのだよなあ(直後に事態を受け入れられない長男はフラフラと公衆電話を出て車に轢かれてしまう)。それなのに長らく自分は矛先を向けられないまま、夫のほうに息子の憎しみが向いててそれを許してたのが、墓場に持っていく言葉の選択がおかしいやろという感じであった。だからこの物語は駄目であるっていうのではなくて、このズレが本作の妙味の一つなのだろうなあという意味で書いているのだけれども。そしてこの映画は、父親が死んだ後の墓参で主人公と母親が二人でのんびり外を歩く描写は挟めど、そこで何を話していたのかは伏せて余白を作っていたりもする(主人公はもう自分の中のあらゆるわだかまりが解決しているので、やたらと責めるなんてことは間違いなくしていないのだけれども)。

あと、本作、ドストエフスキーの『罪と罰』を作中で何度か出してきてたのだけれど、なんかなんとなく使われただけで、あんまりそれである意味が生きてなかった気がする(私自身は『罪と罰』は既読している)。これと照らし合わせてどうのというものになってないと思うのだけど、そうでもないのかな。本作は浅田次郎の小説が原作であるようなので、そちらはこの辺の関係がちゃんとしてるのだろうかと頭の中で引っかかりはした。

おおよそ胸になんか気持ち悪く引っかかるものがある作品だったと思う。表向き、なんとなく感動作品っぽくしてるけど、全然そんなことないよな……。
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