きゅうげん

セールスマンの死のきゅうげんのレビュー・感想・評価

セールスマンの死(1951年製作の映画)
4.6
現代社会のあらゆる問題――社会競走や経済格差、若者や老人の世代論、父子関係の議論、学歴・教育問題、ジェンダー問題に家庭問題など――が、ある家族へもたらしてしまった悲劇。
あまりに惨酷、痛切、空虚なお話に胸がいっぱいになると同時に、今でも現実問題として本作にあるような内容がどこかで起こっていると思うとやるせなくなります。
とくに夫ウィリー・妻リンダ・息子ビフのどうしようもない関係性たるや。戯曲ゆえにフラットな人物造形がなされており視点がウィリーにのみ執着しないことで、リンダの大変さ・ビフの大変さも身につまされるほど活写されています。

お話もさることながら、映画としての素晴らしさはジキル博士で知られるフレデリック・マーチの狂気的(まさにルナティック)な場を喰う演技と、それを補強するゆめうつつの妄想表現です。
父ウィリーとしてみせる、怒鳴ったり陶然としたりの縦横無尽なお芝居は脱帽ものですし、彼が兄ベンの幻覚をみる際の、それまでと同じ部屋・同じ地下鉄構内であるはずなのに無間地獄の夢でも見ているかという、まやかしとしての恐ろしさ。映像化として100点満点を優に超えるものでしょう。

そんな地下鉄でのやり取りで、成功者ベンと彼に無心するウィリーに対して妻リンダが「誰もが世界征服する必要が?」と吐き捨てる場面があります。
これはいわゆる文字通りの"覇権的男性性"へ向けられた言葉です。ウィリーやビフ、ハッピーのような男性は今もそこら中にいます。この問題は姿形や性格を変えてこれまでも連綿と俎上に上げられてきたものなのです。
近年で言えば、芥川賞を受賞した遠野遥『破局』が記憶に新しいところでしょうか。『セールスマンの死』がその悲しさに重きをおいていたのに対して、こちらはその愚かさにフォーカスした小説といえます。

私もまだ学生ながら、まさしく本作のように「休みの日に父の革靴を磨いていた頃は良かったなぁ~」なんて思い出を夢想し耽溺することがしばしばあるので、その危うさを自覚して背筋を正し生きてゆきたいです。