古川智教

河の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

(1997年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

役を引き受けることは身体の受難である。本来、現実においてはそうした役割は人形が果たしている。映画の冒頭での死体役でのマネキンがそうだ。汚い河に浮かべられ、何度もひっくり返されては、腕や脚をもがれ、石を詰められ、挙げ句の果てには使い物にならないと切り捨てられる。今度はリー・カンション演じるシャオカンが死体の役を引き受ける。つまり、映画においては俳優が身体の受難を受け入れなければならないということだ。人形/マネキンがされたことと同じことをシャオカンは身に引き入れたので、死を願うほどの首の痛みに襲われる。また、そうした受難は日常性の身体に到来しなければならないので、登場人物たちの食う、寝る、愛撫する、拒絶するといった日常の所作、姿勢を繰り返し描いていき、その上に降り注ぐようにする必要がある。まるでシャオカンの父親の部屋の天井から漏れてくる水のように。そして、厄を払うためには役を破綻させなければならない。でなければ、役に俳優が殺されてしまうことすらあり得る。(古今東西の映画における俳優に到来した悲劇を例に出すまでもないだろう。リー・カンションもまた例外ではなかった。ただし、リー・カンションの場合は「河」の制作前に病を患い、「河」の撮影で厄を払い、長い時を置いて再発していたのだが。俳優に到来する受難は偶然ではなく、映画における身体の受難と無関係ではいられないのだ。)破綻とはこの映画においてはもちろん近親相姦による破綻と漏水による空間の破綻のことである。そう、映画における空間もまた役と同様、受難を引き受けなければならない。シャオカンの父親が息子に気づかなかったのは、シャオカンの首の痛みに悶える所作、姿勢が法悦の所作、姿勢と変わらないからだ。殉教者の痛みと法悦が身体の受難をもたらしている。
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