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快楽のukigumo09のレビュー・感想・評価

快楽(1952年製作の映画)
4.2
1952年のマックス・オフュルス監督作品。オフュルスというのはユダヤ人であるのを隠すために用いた偽名で、ドイツ出身の彼の本名はマクシミリアン・オッペンハイマーである。ドイツで監督デビューした彼は、ナチスの台頭によりフランスに亡命しフランス国籍を取得する。フランスではミュージックホールの踊り子を描いた風俗喜劇『ディヴィエーヌ(1935)』や、芸者とロシア人将校の愛を描いたトンデモ映画『ヨシワラ(1936)』、キャバレーで働くヒロインが昔の恋人に再会し、現在の堕落した姿を見せないために大芝居を打つメロドラマ『明日はない(1939)』などがあり、この時期にはイタリアやオランダでも映画を撮っている。その後米国へ亡命したオフュルスは1940年から1945年まで映画を撮ることができず、『忘れじの面影(1947)』という素晴らしいメロドラマはあるものの、不完全燃焼でフランスに帰国することになる。流転の映画作家マックス・オフュルスが真のオフュルスらしさを発揮するのは、帰国直後に撮った『輪舞(1950)』からであり、『輪舞』の興行的成功の後に作られたのが本作『快楽(1952)』である。

本作はモーパッサンの短編小説を原作とした、3つのエピソードからなるオムニバス映画で、色んな形の快楽がテーマとなっている。前作で興行的成功を収めながら『快楽』の撮影に少々時間を要したのは、細部まで徹底的に作り込む作風のためである。実際、本作でも製作費がかさみ、途中で資金繰りが悪化して撮影が一時中断してしまったようだ。そのためオフュルスの代名詞である流麗な移動撮影の中核を担う撮影監督が、第1話と第2話では『輪舞』のクリスチャン・マトラであったのだが、第3話ではフィリップ・アゴスティニに代わっている。

尺としては第1話の「仮面の男」と第3話の「モデル」が15分程度の短編で、第2話の「メゾン・テリエ」が60分程の中編といった具合だ。
「仮面の男」では冒頭、パリのダンスホールの外景と、オーケストラの奏でる音楽に導かれるように、そこに集まる人々が映される。ゆっくりと動くカメラがお洒落をした女性や正装の男性、客を乗せた馬車を19世紀後半の雰囲気たっぷりに捉えていて、映画の成功を確信させるような導入部である。建物の内部は煌びやか装飾が施され、真ん中には踊るための空間がある。奥には楽隊がいて、隅にはテーブルで食事したりお喋りしたりする人々がいるし、階上も同様に多くの人がいる。この空間で人々はせわしなく行ったり来たり、出たり入ったり、上ったり下りたりを行っているので、画面には上下左右、手前も奥も動きで溢れている。ここに更なる動きをもたらすのが仮面の男(ジャン・ガラン)である。ホールに入ってきた彼は、階段によって複雑に入り組んだ空間を、人をかき分けながら小走りに上ったり下りたりして中央までやってきてそのまま踊りだす。仮面の男を追いながら、いつの間にか一緒に踊るような滑らかなカメラの動きは、瞬きするのも惜しいほどの美しさだ。はしゃぎすぎて卒倒してしまった仮面の男を、ダンスホールにいた医者(クロード・ドーファン)が家に送り届ける。ダンスホールとは対照的な薄暗いアパートの階段を、医者の手を借りて登っていくと、夫の帰りを待つ妻(ガビ・モルレ)がいる。仮面の男がベッドに入って寝た後、夜遊び好きで浮気性の夫を持つ妻が医者に語った「彼の頭に白髪を見つけた朝はなんと家事が楽しかったか」という言葉が印象的だ。長年連れ添った妻の言葉には、好きや嫌いを通り越した重みと深みがある。そんな「仮面の男」のテーマは快楽と愛の対立。

第2話の「メゾン・テリエ」はこれだけで1つの作品として十分成立するどころか、映画史上でも有数の傑作と言いたいぐらい、艶めかしくて美しい愛すべき映画である。
メゾン・テリエとはノルマンディの娼館の事で、外から覗き見るように映している。館の女将(マドレーヌ・ルノー)が入り口で、新たにやって来た客に満員だと伝えて扉を閉じる。彼女は振り返り階段を上がって行くと、カメラは館に入ることなく、彼女と同じ速度でふわーっと上昇する。当然壁や柱や梁や窓枠などで彼女の姿はしばしば遮断されるのだけれど、2階まで行くと窓を通して彼女を見ることができる。彼女は戸締りをしては隣の部屋へと移動し、それを追いかけてカメラも右方向へゆっくり移動する。出窓のある部屋に置いてある花に水をやり、さらに右方向の部屋では小鳥に餌をあげている。初め地上の高さにあったカメラが2階付近まで上昇し、さらに数部屋分を横移動するには、セットの設計や照明、役者の芝居のスピードなど、恐ろしいほど作り込まれているはずなのだが、奇妙なまでの自然さで画面に収まっている。こういったところがオフュルス作品の真骨頂と言える部分で、「仮面の男」のダンスホールのシーンもそうなのだが、クリスチャン・マトラの撮影による映像の魔術に陶酔させられるだろう。
このメゾン・テリエがある日突然閉まっていて、町の男たちは困惑して右往左往している。実際は女将の弟で指物師のリヴェ(ジャン・ギャバン)の娘の聖体拝受式に参列するために、女将は娼婦たちを連れて出かけていたのだ。
弟の暮らす田舎へ向かうために女将たちは蒸気機関車に乗るのだが、汽笛を鳴らし、真っ白な煙を吐きながら走る蒸気機関車は、陽光を浴びてキラキラ輝いている。駅に着くとリヴェが白馬に荷車をくっつけた馬車で待機している。6人の女性たちを荷車に乗せリヴェは出発する。左右に田園が広がる中を、トコトコと揺られながら走る馬車で、女たちは陽気にお喋りしながら全身で風を浴びている。
リヴェの家で休み、翌日村を6人の娼婦たちが、派手な服を着て練り歩いていると、都会の貴婦人がやって来たと村中で話題になっていた。彼女たちは聖体拝受が行われる教会へ行っても大歓迎であった。そして式が始まると娼婦の1人ローザ(ダニエル・ダリュー)が突然涙を流し始め、それが広がり、そこにいる人みんなが泣き出すのだ。そこでは職業に貴賤などなく誰もかれも同じように泣いていて感動的だ。短編の名手モーパッサンであっても小説ではこの涙にいくつかの言葉を用いて、説明的な描写をしているので、オフュルスの映画の方がより詩的で神秘的な印象を受ける。この「メゾン・テリエ」のテーマは快楽と純潔の出会い。
娘の聖体拝受という大事な時に、娼婦ローザに岡惚れしてしまうリヴェをジャン・ギャバンは爽やかさといやらしさの絶妙なバランスで演じている。彼は酔っ払って、ローザの部屋へ突入しようとするが、他の女性たちに制止され、姉からはこっぴどく怒られる。酔いを醒ますため、ポンプの水を頭から被る彼は少しばかり可愛らしい。馬車で駅まで送り届け、列車に乗り込んだ姉に、ドア越しに別れの挨拶をすませた後、ローザを呼ぶ。ローザとの挨拶を終えると、図ったように列車は動き出す。その瞬間ギャバンは反転し、小さな橋を渡り、線路沿いの道を、巨体を揺らしながら列車と併走するのだ。列車が見えなくなるまで手を振り、その後トボトボと1人で帰っていく姿は哀愁が漂っている。
この「メゾン・テリエ」が素晴らしいのは、本来のオフュルス的な、セットでの流麗なカメラワークによる繊細な表現と、自然の中で走る蒸気機関車や馬車と共に、朗らかに人物を捉えるジャン・ルノワール的おおらかさが一本の作品で違和感なく味わえるところだろう。

第3話の「モデル」は画家ジャン(ダニエル・ジェラン)とモデルのジョゼフィーヌ(シモーヌ・シモン)の物語。男と女の出会いのシーンに階段が用いられるのもいかにもオフュルス的である。階段を上るジョゼフィーヌを見て、小走りに後を追うジャン。彼らは柱や壁の陰に隠れてしまうが、カメラがそのまま左へ向きを変えると、違う階段から2人が親密そうに一緒に降りてくる。2人は画家とモデル以上の関係になるのだがジャンの方が彼女に飽きてしまうというストーリーだ。
この「モデル」で最も注億すべきは、後にトリュフォーが『ピアニストを撃て(1960)』で引用した事でも有名な、ヒロインが自殺を図るシーンだろう。口論の末、自暴自棄になったジョゼフィーヌは窓から飛び降りるために階段を上がるのだけれど、それまで彼女を映していたカメラがカットを割ることなく、いつの間にか彼女の目線になり、カメラ自体が階段を上がって行くように進む。そして扉を開け、落下していくのだ。
一命を取り留めたモデルと画家の物語「モデル」のテーマは快楽と死。

戦後フランスに帰ってからのオフュルス監督の作品はどれもこれも素晴らしく、1本のハズレもない。モノクロ作品の本作では白黒ならではの、白煙や白馬、純白のドレスなどの輝きや、夜の闇の美しさが堪能できる作品だ。
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