某所の大スクリーン、その2
- Processione (プロチェッシオーネ)が印象に残る。それはキリストの行列のことなのだけど、これはじつにカトリック的なもので、聖母の像であったりもするのだけれど、戦後のイタリア各地で行われたんでよね。ある意味でそれは、復興のための精神的な支柱を提供するものでもあったわけで、日本だったら天皇の行幸のようなものといえばよいのだろうか。
そのプロチェッシオーネが、舞台となったマンハッタンのリトルイタリーを練り歩く。そのまさに行列のさなかに銃をぶっ放すのは、隣の地区にチャイナタウンのギャング。銃声がひびきわたり、混乱のさなかに、プロチェッシオーネのキリストの像が倒れて、こなごなに砕けながら、その首が転がってゆく。おいおい、こいつはスサマジイゾ、こんな恐ろしいしいシーンをイタリア映画では見たことがない、そうぼくは思ってしまった。
- ロメオとジリエットでも、ウエストサイド物語でもよい。物語の類型をどこからとろうと、チャイニーズとイタリアンの暴力的なマウンティングが合戦は、けっきょくのところ、アウトカーストのさらなるアウターを決めるための戦いなのだ。弱者がさらに弱者を求める戦いだけを見ていると、その背後に姿を隠している「悪者」の姿を見逃すことになる。
「悪」とは、弱者を持たないではいられない人間存在の弱さだということ。フェラーラの映画は、おそらく、そこを突こうとするのだろう。
だから、この映画で撃ち抜かれて倒れるトニーとタイのカップルの哀れよりも、この愛すべき愛を具現したカップルを撃ち抜かざるを得なかった、やさぐれチャイニーズボーイの哀れに、ぼくらは感じ入らなければなければならないと思うんだよね。