シズヲ

民衆の敵のシズヲのレビュー・感想・評価

民衆の敵(1931年製作の映画)
3.7
『犯罪王リコ』や『暗黒街の顔役』に並ぶ1930年代ギャング映画の金字塔。いずれも80~90分前後で無駄なく物語が進んでいく。ウィリアム・A・ウェルマン監督は西部劇でもあの『牛泥棒』を撮っていたりなど、ジャンルを跨いで革新的な秀作を排出しているので凄い。「この映画はギャングを礼賛するものではない」「ある階級の人々を率直に描くことが目的である」という冒頭のテロップからは検閲の厳しかった時代性を感じるものの、それでも“悪事に手を染める貧困層の若者達”や“禁酒法を背景に台頭するギャング”という構図には当時のリアルを伺わせる。20世紀初頭の町並みや人々の姿を捉えた冒頭の映像からは生々しい空気感が滲み出ているし、そこからシームレスに主人公の物語へと移行するのもスマート。

洗練された撮影がやはり印象的で、真夜中の街をバックに毛皮泥棒を働く一連のシーンや土砂降りの中で殴り込みをかけるシーンなど要所要所の場面がしっかりと印象を残してくれる。当時の映像表現の限界もあるとはいえ、直接的な暴力描写から敢えて目を逸らした演出も良い。ピアノを弾き出した相手に銃を突きつける→カメラが移動した直後に銃声→何かがのしかかったようにピアノの不協和音が鳴り響く……といったシークエンスなど、こちらの想像力を促してくることで却って暴力性を際立たせているのが強烈。主人公の暴力性が演出で保証されているからこそ、愛人の顔にグレープフルーツを擦り付ける場面もまたバイオレンスの如く映る。エドワード・G・ロビンソンと同様に小柄なジェームズ・キャグニーだけど、その甲高く饒舌な演技と不敵な佇まいのギャップも相俟って独特の存在感に満ち溢れている。

主人公であるトムは非行少年というスタートラインから徐々に悪事へと手を染めて成り上がっていくけど、彼自身は“ギャングとしての大成”に対する具体的な心情を殆ど見せていないのが印象に残る。それ自体が目的であるというよりかは、そういう生き方を選んだ上での付随品のような扱いに感じてしまう。このへんの暈された感性は『犯罪王リコ』も同様だったけれど、本作は幼少期からトムの人生を追っているだけに“自身の行動の結果”に対するリアクションの曖昧さが尚更際立っているような印象。成り上がることはあくまで生きるための、家族を養うための手段に過ぎなかったのだろうか。母親への思慕と堅気の兄に対するコンプレックスが終始貫かれている辺りにトムの人間味を強く感じてしまう(それ故に終盤での“和解”は彼の死期を察してしまう意味でも印象深い)。

ラストシーンは半ばホラー映画のように強烈なインパクト。何も知らずに明るく出迎えようとする母親との対比的な演出、敢えて“その後”を描かないまま幕を下ろしていく結末。それまでのキャグニーの生き様も相俟って、虚しさや悲哀の入り混じったような何とも言えぬ余韻が残される。
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