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キンスキー、我が最愛の敵のgenarowlandsのレビュー・感想・評価

キンスキー、我が最愛の敵(1999年製作の映画)
4.1
ヘルツォーク監督が語るキンスキー。とんでもエピソードのオンパレードで、一歩間違えると犯罪の域(さる件では完全に犯罪だが)。ヘルツォーク監督が猛獣使いにみえた。と同時に、ヘルツォーク監督はキンスキーという役者を通して自身の怒りや恐れのエネルギーを体現しているんだろうなという至極自然な感想をもった。ヘルツォーク監督は自称冷静であり、理性的に語るが、キンスキーの中に充満している危うい可燃性のガスが自分にも流れているのを知っている。

たびたびヘルツォークが語る「キンスキーは自然児といいながらも、いざジャングルに来れば蚊一匹でも大騒ぎする。ジャングルの中には自ら足を踏み入れない。自然児は見せかけである」という姿は、考えてみればふつうにふつうの人である。好んで毒蛇や虫や猛獣のいるジャングルに入りたい人はほんの一握りの冒険家しかいない。(未開の地が大好きなのはヘルツォークの方)

そのキンスキーに仕掛けてジャングルの中で恐怖と興奮マックスにさせ、最大の演技を引き出すヘルツォークの方が恐ろしく、まあSですね。キンスキーも仕掛けられているのを受け入れ、Mとして外部からの刺激に反応し、極限状態にまでエネルギーレベルを引き上げ集中し、内なるエネルギーを爆発させる。

ギリギリの感情となるのを双方が待つ。よい関係であった。

若い頃、同じアパートにヘルツォークとキンスキーが住んでいたのが縁だった。キンスキーの奇行を知っていた。

二人は5本撮って別れた。あまりいい別れ方ではなかったようだ。最後の「コブラ・ヴェルデ」はキンスキー自身が主演監督していた「パガニーニ」に気が向いてしまい、集中できなかったもよう。ヘルツォークは不満に思っていた。もっとキンスキーを高ぶらせたかったんじゃないかな。キンスキーは自分の映画「パガニーニ」のことで頭がいっぱいで自身のエネルギーをセーブしていた。そしてキンスキーの脚本でヘルツォークに監督してほしいと依頼するが、ヘルツォークはキンスキーの脚本ではダメだと断る。このエピソードからもキンスキーがただの狂人ではないことがわかる。ヘルツォークによって恐怖や怒りのエネルギーが共振し倍増され放出される。二人のタッグで生み出されるダイナミズム。作品は共同作業なのだ。

ペルーのアマゾンで撮影された2本の「アギーレ」と「フィツカラルド」のエピソードでは両者は結果的に満足が得られたことがわかる。「アギーレ」では単調な川の背景と狭い舞台である筏の上で役者キンスキーが身体を捻らせてカメラの前に現れ、画に変化と奥行きを与える。キンスキーが優れた役者である証だとヘルツォークは褒める。

ジャングルで船山に登る、前代未聞の破天荒な作品「フィツカラルド」は当初予定していたジェイソン・ロバーズとミック・ジャガーが撮影早々に降板したり、船は壊れたりの難航する撮影だったが、後半からキンスキーが監督やクルーを信頼して集中し、満足いく撮影が出来たとのこと。それは作品を観てもわかる。最後のオペラシーンのキンスキーのドヤ顔。爽快感と達成感が満面の笑みから伝わってくる。

ヘルツォークは言う。
「カメラに映って出来上がったものがすべて」

披露されるキンスキーのエピソードはどれもヤバいヤバいヤバいなんだけど、わかっていて起用するヘルツォークはもっとヤバい。

極度な潔癖症で自己偏愛の舞台役者のキンスキーを、未開の地を舞台にしてストレスを与え、狂気を引き出し演じさせた。この恐ろしいアイデアを思いついたのはヘルツォークの狂気である。ヘルツォークの狂気でキンスキーを守り包み、キンスキー自身を恐怖から解放させた。ヘルツォークをも。

お宝映像がたっぷりで映画の舞台裏が見られたのも楽しかった。
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