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白鯨のnoteのネタバレレビュー・内容・結末

白鯨(1956年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

1841年、マサチューセッツ州ニューベドフォード。流れ者の船乗りイシュメルは安宿で知り合った異国の銛打ちと意気投合し、老朽の捕鯨船ピークォッド号に乗り込む。その船の船長エイハブはかつて"白鯨"と呼ばれる巨大なクジラに片足を喰いちぎられ、復讐に燃えていた…。

ハーマン・メルヴィルの文芸大作を、巨匠ジョン・ヒューストン監督とSF界の詩人と呼ばれた作家レイ・ブラッドベリが脚色した海洋アドベンチャー大作。
当時の曲者キャスト陣の競演も去ることながら、グレゴリー・ペックの鬼気迫る熱演は見事。
何度目かの鑑賞だが、今見ても充分に面白い。
突き抜けたパワーを持つ傑作である。

イシュメルを狂言回しに物語が始まるが、彼の飛び込んだ捕鯨漁の世界は、国籍や年齢を問わず、腕か度胸がものを言う強者どもの実力主義の世界。

そこに偏見や差別は無く、ある意味で意図の無いポリティカル・コレクトネスな集団である。
船に乗り込む前、教会で昔は銛師だった神父の神の威光を説く説教と、船着き場で出会った奇妙な男の警告は、ラストの悲劇に対する伏線。
船を見送る女性たちの視線は、別れの涙も船の無事を祈る気配もなく、これから死にゆく男たちの姿を目に焼き付けようとしているかのような真顔の凝視。
そして、出航して初めて分かる、至る所塗装が剥げ落ちてひび割れの入ったボロボロに老朽化した帆船の甲板を磨く汚らしい格好の船員たち。
燻んで見えるフィルム映像もあって、その世界観はリアリティ満点だ。

不吉な兆候に満ちた船出からしばらくして、顔面に深い傷を持ち、鯨の骨で作った義足で甲板に不気味な音を響かせるエイハブ船長が登場。
復讐に憑かれた男エイハブと怪物との戦いが始まる。

白鯨の目撃情報と海流を計算して作られた海図をもとに、白鯨の進む先へと急ぐエイハブ。
何も知らずに乗組んだ船員達は、商業捕鯨ではなく彼の白鯨追跡宣言に驚くが、船長の狂おしい復讐の熱意に感染。
賞金に掲げたスペイン金貨を得んものと夢中になる。

本作は昔の船乗りの文化、特に捕鯨文化が映像で見られる貴重な作品でもある。
小舟で追い込んで鯨を狩り、脂を搾り、港に戻って家々に明かりを灯す。
人はそうやって自然の恩恵(犠牲)で生きてきたのだと思うと感慨深い。

しかし、順調に見えた船の行く手を嵐が襲う。
沈没の危機に瀕するような強風にもエイハブは帆を下ろせと命じない。
この強風を利用して白鯨に追いつけとはまさに狂気の沙汰だ。
怒った航海士スターバックとエイハブは豪雨の中に対立する。

良く言えば船長の夢と執念と冒険物語だが、裏返せば無謀と狂気と強制の連続。
現在の目で見ると、コンプライアンス重視の風潮とは全く逆のパワハラの嵐で、無理やり付き合わされる船員たちは気の毒でしかない。
だが、こういう強引なリーダーがいてこそ、まさに命懸けの大勝負ができるというもの。
金という餌と熱弁を武器に船員を扇動する狂気の船長エイハブを、グレゴリー・ペックが顔を歪めて眼を血走らせ、紳士的なイメージをかなぐり捨てて、見事に演じている。

印象的なのは、嵐の真っ只中にマストの先端から銛に移ったセントエルモの火をエイハブ自らの手で消し、船員の士気を鼓舞する姿。

セントエルモの火は、船乗りのあいだではその火が現れると神の加護により嵐も治まると言われる現象。
その火を消すとは神の力を自ら払い除け、神をも超えた瞬間に映る。
それを見た船員たちは、白鯨に戦いを挑むことに反対だった者までもエイハブに盲従していくことになる。

長い捜索の後、ピークォド号は白鯨と遭遇し、激烈な戦いとなる。
だが白鯨は乗組員たちが次々と打ち込むモリにビクともしない。
エイハブは白鯨によじ登り、決死の形相で猛り狂う白鯨の背中に復讐の銛を突き立てるが、戦いのためのボートは打ち砕かれ、白鯨はエイハブを殺そうと海に潜水していく。

明らかにミニチュアによる特撮が難点ではあるが「映像のマジック」と呼べる絶妙な合成と編集で魅せる。
砕け散る船の破壊は、我が国の「ゴジラ」に通じる緻密さだ。

銛綱に巻き込まれ、白鯨の身体に巻かれた格好になり壮絶な死を迎えるエイハブ。
溺死しているであろうエイハブが、死してなお他の乗組員を手招きして、白鯨に銛を撃てと言っているような執念の姿は、今なお強烈なインパクトを放つ。

エイハブの死後、リーダーシップを失った小舟をまるで狙い澄ましたかのように白鯨が襲い、スターバックの指揮もピークォド号も白鯨の体当たりによって瞬く間に全ての船が沈む。
船員たちもイシュメルを除いて全員死亡。
イシュメルは積んであった棺桶にしがみついて漂流したのち、同じ捕鯨船に救出される…。

鑑賞後の印象は「兵どもが夢の跡」である。
海から海へ長い航海の果てに、人間は大自然の脅威に破れるのは虚しさがある反面、同時に感じられるのは現在でも良く語られる「驕れる人類の愚かさ」だ。

人は大自然の猛威には敵わない。
だが、人の歴史とはそれを克服しようとした努力の積み重ねとも言える。
エイハブの場合は努力や技術ではなく、恨みと執念という負の感情が原動力であった訳だが、それも人間のエネルギーの一つであり、「愚か」だという一言では否定したくはない。
執拗なエイハブの復讐に、人間に宿る凄まじいエネルギーを感じ取ることが出来る作品である。
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