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白い肌の異常な夜のあのレビュー・感想・評価

白い肌の異常な夜(1971年製作の映画)
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この映画を見て、閉鎖空間で抑圧された女の欲望について、あるいは女好きの男のだらしない欲望について嘆いたり、その物語の帰結を教訓的に恐ろしやなどとあれこれ言うのは、感性の老いて乾ききった者のすることだ。それは、森の中にある若い女の集住する館に、見え透いた欲望と期待を持って、保護を名目にやってくる南軍の男たちの感性と何ら変わらない。
南軍のテリトリー内にある女子学校に、重傷を負った北軍兵士として招かれざるして運び込まれ、その館でただ一人の男として介抱されることになるマクビー伍長(イーストウッド)は、そんな輩として描かれていないし、彼と学園の女性たちとのあいだで起こる関係=ドラマは、そのような乾いた目と口で説明できることではない。彼は優れた観察者であると同時に自分でも制御できないほど高性能の感受体であるが故に、入れ替わり立ち替わり介抱される彼の元を訪れる女性たちとの束の間の時間のなかで、彼女たちの緊張や恐れ、あるいは欲求を瞬時に感知し応答しようとしてしまうのである。それは、結局男は女はそういうものだよねなどと言うことではなくて、その瞬間瞬間の目線や声色や距離によって発生し感知できる純粋かつ不確かで危うい何かでしかない。
まずもって、彼が森の中でキノコ狩りに来ていた学園の少女エイミーに発見される場面でマクビーがエイミーにキスをするシーンに驚く。泥だらけで焼け爛れた大男が助けようとしてくれているおさげの少女に意識半ばのなかキスするのだが、あまりに唐突で説明不可能で、かと言って不自然ではなく純粋に見えて、何なんだこれはとなる。
その後の学園の女性たちとのあれやこれやについても書きたいところだけど長くなるのでやめにして、オープニングとラストで聴こえる謎の歌声について触れておきたい。それは紛れもなくイーストウッドの声で、歌声が聴こえるその最初と最後だけ画面も何故かセピア調なのだけど、特にラストで聴こえる時、すでにマクビーは死んでるので、亡霊としての歌声にも聞こえる。死んだも同然で突然現れて、死んで去っていくこの感じ、その後のイーストウッド映画の感じに似ている。
あ