タカヒト

麦秋のタカヒトのレビュー・感想・評価

麦秋(1951年製作の映画)
5.0
僕は映画なり小説なり文学に触れたときに日本人を感じることはほとんどないのだけれど、この作品はどうしようもなく僕が日本人であることを自覚させられた。

冒頭、一家の朝を描いたシークエンスからもう、涙が出てきそうなくらい愛おしい。現代にはおそらく、ほとんど存在していない日本の伝統的な光景がそこにある。それを見て、何も現代社会を批判したくなったというわけではない。そうした復古主義的な感覚になりかねない作品だとは思うが、僕はそこまで無責任にはなれない。本作に描かれているものは様々な要因によって現代社会では捨てられたものであって、戻るということは同時に現代社会が享受している何かを捨てなければならない筈だ。時代性によって捨ててしまったことに対する責任の一端が自分にはあるし、若干の後ろめたさもある。この映画は現代日本が捨ててしまったことを責めるわけでもなく、そこにあった暖かさを禁欲的に見せつけてくるのだ。

この作品では家庭空間というものが独特の感覚で描かれる。それは玄関のショットなどから読み取れるが、家庭空間の「外部」を分離して描いている。家庭空間に「外部」が介入することを丁寧に避けているのだ。それこそ愛おしさの正体であろう。この作品において家庭空間はどうしようもなく無条件に守りたいものとして描かれている。だからこそ、最終盤で受け手はやるせなさを覚えながらも、あの家庭空間の将来を悲観したりはしない。

世代の描き方も非常に丁寧。一家が原節子演じる紀子の縁談であっちこっちする景色がこの作品の全体的な物語だが、この縁談を積極的に動くのは紀子の父ではなく兄であり、父はどちらかといえば静観気味だ。母親は色々と思うところがあるが、押し通すような行為はしない。兄嫁は紀子に協力的だ。安心するのは、子ども二人はそんなこと御構い無しに毎日を過ごしていることだ。
そうして最後、紀子ではなく父母夫妻にフォーカスが当たる。夫妻は豊かな麦畑を見ながら「色んなこと」があり、「欲を言えばきりがな」かった人生を「幸せ」なものとして終わる。受け手は映画に対して静観を求められる。インタラクティブな娯楽体験ではない以上、映画に描かれているものに対してやり場のない「欲」を覚えるものだが、僕たちはそうした「欲」を「言えばきりがない」ものとしてそこにある「幸せ」を受け入れるのだ。僕たちは本作品を実のところ老夫妻の視点で観ているのかもしれない。
無限の可能性を持った2人の子ども、結婚を考えなければならない年齢になった紀子、すでに結婚をし子どもを育てていかなければならない兄夫妻、そして人生の終わりが近づく父母夫妻。それぞれが役割を果たし、確かな「生」をそこに表出させている。その点では、この作品において背景化されたテーマとして「死」が挙げられると思う。

非常に優れた作品であり、日本の家庭空間をこれほど丁寧に作り上げた作品が他にあるだろうか。それを前近代的な光景として批判することは簡単だが、やや過剰なまでに個が重視される現代に生きる僕たちはそうした前近代性に多少なり救われるのである。
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