青山祐介

ダ・ヴィンチ・コードの青山祐介のレビュー・感想・評価

ダ・ヴィンチ・コード(2006年製作の映画)
3.5
ロン・ハワード「ダ・ヴィンチ・コード(The Da Vinci Code)」2016年 アメリカ映画

『“地上での神の根源”“魔法の杯”、ナンセンスだわ。― 君は無神論者か?― 私は信じない。けれども人間は信じるわ。優しさを見せる時があるから。― それで満足?― そうよ、それ以上何を望める?』プリンセス・ソフィーの信じることができないという不安のなかの優しさと哀しみがこの言葉には滲み出ています。そのすこし後、ラングドンとソフィーがチューリッヒ銀行の現金輸送車で逃走するときには次のようなセリフがあります。『緊張で気分が悪くなった時は顔を窓の外に出すの。ソニエールは“犬みたい”って。かわいい犬よ、子犬とか。』劇場用の映画ではカットされた場面であるが、この意味のよく分からない、状況にそぐわないセリフの何と愛らしいことか。このセリフがあることによって物語の雰囲気はまったく別のものになり、プリンセス・ソフィーの心の深みに存在する哀しみを感じることができるようになります。
原作であるダン・ブラウンのダ・ヴィンチ・コードは、マグダラのマリアの民間伝承や伝説と噂話をもとに、パズル、宝さがし、暗号、秘密の儀式、邪悪な欺瞞、守護者、シオン修道会、教会の力の根源、テンプル騎士団、ニケーア公会議、クリプテックス、最後の晩餐、岩窟の聖母、モナリザ、聖なる女神、魔女の鉄槌、聖なる宝物、聖なる血脈、ピリポの福音書、マグダラのマリアの福音書などを巧みに組み合わせて、宗教と歴史の壮大な謎解きの物語になっています。しかし、多くの批評家、宗教家、知識人には不評で、カトリック教会からは強く批判され、信者からも神学的な反発と冷笑を浴びることになります。地上の教会としては受け入れがたいものだからなのでしょう。しかしプリンセス・ソフィーに焦点をあわせると、「最悪監督賞」にノミネートされたロン・ハワードは福音史家、というよりもむしろ狂言回しになり、ラングドンは「シオンの娘」、「信ずる者たち」を代表するものか、別の見方をすれば操り人形にすぎなくなります。そしてこれは信仰と愛をめぐるプリンセス・ソフィーのお伽噺に変容します。ここまでくると、解き明かされるべきは謎だけではなく― 女性なるもの ― プリンセス・ソフィーの過去に思いが、映画を離れれば離れるほど、深くなっていきます。3歳、4歳、10歳、13歳の少女時代のソフィーに起きた出来事の一部を垣間見ることはできますが、ソフィーの心の奥までは覗くことができません。寄宿学校での生活は?大学は?私生活は?なぜ暗号解読官になったのか?友人は?恋愛は?結婚は?その時彼女は何を思い、悩み、何を考えていたのでしょうか?
プリンセス・ソフィーは三つの奇跡を起こします ― ブローニュの森のジャンキーを更生させ、ラングトンの恐怖症を癒し、教会では鳩に変身した天使たちに救われます。これはプリンセス・ソフィーの魂と救済の物語です。
プリンセス・ソフィーは激情にふるえることもあります ― 「岩窟の聖母」を破壊すると威嚇する行為や、パリの街の逃避行では、車の逆走で駆け抜けます。そしてシラスを打擲し「地獄で焼かれる!」と迫る烈しい姿も見られます。これはプリンセス・ソフィーの心の闇、そこから迸る祈りと慟哭の物語です。
プリンセス・ソフィーの、歴史を背負い、癒されることのない哀しみが心に響きます。 ― 両親と兄の事故死、ソニエールの死。泣きながら花の中を駆けるソフィー。そして「人って結局誰を守るか、何を信ずるか」と微笑むソフィー。これはプリンセス・ソフィーの愛の物語です。どうか神の恵みを!
聖杯のありかを確信し、星空の下、パリの街を歩くラングドンの姿が印象的です。
これは一つの物語のひとりの女性に感情移入をしすぎた者の感想です。
青山祐介

青山祐介