河

さすらいの二人の河のレビュー・感想・評価

さすらいの二人(1974年製作の映画)
4.0
背景としてチャドにおける内戦がある。チャドはフランスによる植民地からの独立後、独裁体制となっていた。体制、大統領は野党の結成を禁止しており、反政府ゲリラへの粛清を行っている。そしてその国家はフランスに依存しており、内戦においても欧州はその体制側を援助している。

それに対して、主人公であるロックは欧州側の新聞記者、つまり体制側の存在としてチャドで取材をしている。主人公は欧州の人々の期待したものを報道するからこそ有名な記者となっている。ロックが最初にゲリラ兵へと接触しようとしたのは、外国人が捕らえられているから。つまりゲリラ兵を敵として撮るためである。

人間は習慣の生き物であり、どんな状況や経験をも自分が既に持つ記号に置き換えてしまう。主人公は期待された映像や記事をただ出すだけの生活からも、欧州の人間としての視点からも抜け出せない。それによって現地の人との意思疎通もできない。

そのチャドで主人公はゲリラ兵に対する武器の密輸業者、つまり反体制側であるロバートソンと出会う。ロックとロバートソンは同じルーツを持ち同じような風貌で、同じ旅人でありつつも対照的な存在となっており、ロックが抜け出せなかったものからロバートソンは抜け出せている。だからこそ、ロックにはわからない砂漠の美しさがロバートソンにはわかり、ロックには見えない砂漠に住む人々の存在がロバートソンには見える。そしてロバートソンは反体制側の人間としていつ死んでもいいと思っているが、ロックは体制側でありそうでない。

その対照的な存在との出会いに加え、取材を見にきた妻に現状をわかっていつつも欧州の期待に沿うものを撮っていることを指摘される。そして、ロバートソンが心臓発作で死んでいるのを発見し、そのロバートソンへと成り代わる。それによって自分を殺す。

ロックは自身を捨て、その抜け出せた存在であり、何かを信じて反体制として活動していたロバートソンとしての人生を生きようとする。しかし、ロバートソンの手帳に書かれた待ち合わせ場所にいってもその相手は現れない。

しかし、ロックの妻は夫の死の詳細を知るため、途中からは夫としてロバートソンとなったロックを追い続ける。さらに、体制の兵士はチャドだけでなく欧州にも潜んでおり、ゲリラ兵へ協力する人々を殺していく。ロバートソンとしてのロックも同じくその追跡の対象となっている。結局主人公は捨てたかったものからも新しい追手からも追われることになる。

そして、欧州に潜み監視する体制側の兵士は、チャドの砂漠を監視していた兵士たちの反復となっている。どこにいたとしてもそこから逃れることはできない。ロバートソンの待ち合わせ相手が現れなかったのはおそらくその兵士たちに殺されたからだということがわかる。

それによって、主人公はロバートソンとしての人生を生きることも自身を捨てることも叶わない。国を跨いでどこへも移動できるのに囚われたままである。それが、檻の中に閉じ込められた鳥に象徴される。

そこで、主人公は偶然によってロンドンで見た一回り年齢の低い女性とバルセロナでも出会う。そしてその女性とロックでもロバートソンでもない違う男、他人に成り代わった男として行動を共にするようになる。

主人公が逃げようとしているのは過去の自分の関係性だけでなく、習慣によって作られる過去の自分との連続性、どこまでいっても自分が自分であることでもあり、その捨てようとする悪癖以外の全てである。それを象徴するような、車での「何から逃げてるの?」「後ろを見てごらん」というセリフ、その後ろに広がる永遠に変化せず更新され続いていくような直線の道、白く塗られた木のショットが非常に良い。

その女性と共にいる限り、主人公は全てを捨てることができず、ロバートソンに成り代わることもできない。そのため、主人公はその女性と離れようとするが、結果的にその女性との行動を続け、追われながらロバートソンのスケジュール帳に書かれた待ち合わせ場所を辿っていくことになる。

主人公が最後に向かう待ち合わせ先はホテルであり、ロバートソンの妻との待ち合わせ場所だったことがわかる。そのホテルは女性によって景色の綺麗な場所だと言われていた。そして、そこはロックの探していたロバートソンの視点が得られるはずの場所のはずだったが、そのホテルから見える景色はほこりっぽい景色である。

そして、主人公は40歳になって初めて目が見えるようになった男の話をする。その男は最初は有頂天だったが、世界が自分が思っていたより貧相で、ほこりっぽくて醜かったことに気づいていく。そして元のように何も見えない闇の中で生活するようになり、自殺する。
その男は主人公のことであり、ロバートソンとの出会い、妻の指摘によってそれまでの習慣による体制側に順応した生活から目が開くも、結局その後ロバートソンに成り代われないこと、砂漠が美しく見えない、ほこりっぽい景色にしか見えない絶望、もしくは主人公が今までずっとそのほこりっぽい世界を自覚し見続けながらも、そこから逃げ出せずにいたことを指しているように感じられる。

主人公は妻がロバートソンとしての居場所を体制側の兵士に伝えたことによって見つかる。そして、檻のような窓枠越しに景色を見つめる主人公の主観の長回しの間に、主人公は兵士によって殺される。そして、その死によって主人公の主観はその檻から抜け出していく。死によって遂に自分自身から抜け出せなかった主人公はその檻から抜け出していく。

妻は主人公の死体を見て知らない人だと言い、女性は知ってる人だと言う。ロバートソンになったのかは明示されず、ロックではなくなったこと、つまりロックとしての自分を捨てることができたこと、そして主人公別の男に成り代わった男として存在したことのみが明示される。その様子を主人公の主観は檻の外から見つめている。そして、ロバートソンの見ているものを見れるはずだった場所であると同時に、成り代わった男としてその女性と過ごした場所であるホテルが映されて終わる。

この変化しようとしてもできない、ただその過程で新しく何かを得たかもしれないような映画全体の感覚は、女性が主人公よりも下の世代であるこたによって主人公を今後乗り越えるような感覚を持ちつつも、新しい世代になって変化を期待しても結局同じ悲劇、同じ運命が繰り返されるだけという劇中の老人のセリフによってそれが否定される感覚と共通する。

この監督の映画に近代の終焉の象徴のように繰り返し出てくる車というモチーフは、この映画では兵士や妻など主人公を追うものとして現れる。同時に、主人公の車による移動は、妻の追手が現れたことで一度阻止され、その後故障によって不可能となる。主人公は車によって移動を制限される。それは最初のチャドで砂漠にタイヤを取られ徒歩で帰るシーンで既に示唆されている。そして、主人公の話す目が見えるようになった男は、見えるようになったことで道を渡ることが怖くなる。車がその男から見えたほこりっぽくて醜い世界の象徴のようになっている。車が体制からの逃げ出せなさ、どこまでも追いかけてくる感覚、その構造自体のおぞましさを象徴しているように感じる。だからこそ、女性が車から振り返って見る永遠に続くような道のショットがより目眩のするものとなる。

録音されたロックとロバートソンの会話の再生から、現在のショットを切らないまま過去へと遡りその会話を続ける形でロバートソンが現れる。そして、また現在へと戻る形でロバートソンになり切ったロックが現れ、それによってロバートソンとロックに継続性が持たされる。そしてその会話の内容はロックとロバートソンの対照性を表すものとなっている。この、ロックがロバートソンへと切り替わる一連のシークエンスのうまさに感動した。

この監督の映画見るようになってから明確に映画見るペースが落ちた。一本一本が重すぎる。その中でもこの映画は割とわかりやすい方だと感じた。

リヴェット、パゾリーニなど、この時期の映画に共通する社会による実存的不安、パラノイアのような感覚が非常に今の自分の感覚にあうように感じる。パゾリーニがそこから躁的にふれていくのに対して、リヴェットのパラノイアは崩壊して、この監督は現実での諦め、夢想の中での破壊に向かってそのままアメリカンニューシネマと合流するような認識。
社会が何かよくない方へ向かっていく過程、それによる不安から自己が分裂していく過程を愛の不毛三部作を通して描いて、『赤い砂漠』ではそれらの主人公たちの分裂後、『欲望』では完全に分裂しきった人を描いて、『砂丘』でその社会からの逃避に失敗し夢想の中で爆破する、ただ、『砂丘』でもこの映画でも結局そこから逃げ出すことはできず死んでいくしかないっていう、終わりへと入って行ってその後そこからの抜け出せなさを撮っているような流れのように感じた。この監督のどの映画の中心にも分裂があって、それは同じような社会的な雰囲気だっただろうドイツ表現主義の映画の中心にあるものでもある。だからこそドイツ表現主義の主要なモチーフとして鏡があるし、この映画でも出てくる。今がそのような同じ社会的雰囲気の時代だとすれば、どの映画がどうやってその分裂を描いているかを考えたいと思った。
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