矢吹

さすらいの二人の矢吹のレビュー・感想・評価

さすらいの二人(1974年製作の映画)
4.3
カメラが饒舌すぎるのに、言葉は空虚すぎるから、
砂漠、ヨーロッパの街並み、建築物、木々、海、ほこり、オープンカーで感じる風。
綺麗なシーンがありすぎる。
そして、その全てを跳ね除けうるラスト。
サスペンス、ミステリー、ラブロマンス、ロードムービー、どれでもありつつ、どこにも着地しないドラマ。させてくれないというべきか。
耳に残るものと目に残るもの。
世界を構成するのに十分だ。
なんてったって、ラストショットの美しさ、音楽、余韻、夕焼け。その手前の長回し、7分くらい。スタートから着地までがとてつもない。スピード、聞こえる音、カメラに写るものすべてが美しくも、寂しさを誘う。凄すぎる。このために何度でもこの映画は存在できる。あのワンショットのために、わざわざホテルを建てて、撮影に一週間かかったらしい。
結果、あのショットに今までの全てが収斂される。そのためにここまで、たくさんの美しいロングショット、ロングテイク諸々をいくつも繋いできたと言ってしまいたくなるほど。
エンドロール含めたラスト10分間は悶絶もの。
また、ストーリーとしては、アイデンティティと世界の関係性についていろんな考え方を出しながらで。
ただ、話の流れは流れであって、そこに構図を持ってくるというよりは、画は画として、監督の思う美しさを追求していて、結果的にとてつもない化学反応になるって印象です。
商人と記者の違い、
確実な物と不確実な言葉を扱う仕事。
記号、言葉、記事、イデオロギー、編集、職業、パスポート、顔写真、なにもかも、
世界はどこに行っても変わらない。
我々は記号で世界を捉えてしまう。
人は勝手に習慣を作りそれに流される。
規則のために、本当のことは聞けない。
大人は子供を見て新しい世界に出会う。
子供を見て悲観的になる、我々と同じように生きるなど、可哀想であると。
君の質問は君自身をよく表している。
どうあっても自分は自分である。
自分の人生の要素から逃げてみれば、
その形骸は果たして誰なんでしょう。
こう考えてる私は自分なんだけども。
窓の向こうでは、書いたことが真実になる。
窓の向こうでは、答えた言葉が真実になる。
最後のあれがワンカットだったからこそ、
言葉と見ているものがずれる感覚をこれでもかと植え付けられる。
真実というものが通り過ぎて行ってしまう。

アントニオーニ氏、二本目にして、二本とも絶賛困惑中。
これがまた、綺麗すぎるからタチが悪い。
今のところ、ストーリーに関しては
かなり形而上学的だなという感じです。
映画なのにか、映画だからかは知らないが。
全く持って、嫌いじゃないです。

ここまで読み返してみれば、なんか結局何が言いたいんだよって部分がかなりの量を占めましたが、そんなことは監督に言ってください。こっちが聞きたいわ。って誰に言ってるんでしょうね。自分ですよ。それって知ってる人ですか。いや、どうでしょう。自分としては、分かってるつもりなんですけどね。自分の自分に対する認識、あってますよね。いかがでしょうか。大丈夫なのかな。
それが真っ当と思い込んで生きてたんですけど。
どうして今になって今になってそう僕は考えたんだろう。
それは、この映画を見たからだよ。
とりあえず、めちゃくちゃ面白い作品です。
例えば、とある盲目の男は、目が見えるようになると、世界の汚さに絶望して自殺してしまったんだとさ。
そして彼は、また新たな彼として。
矢吹

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