レインウォッチャー

ビッグ・フィッシュのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ビッグ・フィッシュ(2003年製作の映画)
5.0
“『想い出』のもっと以前に『夢』というものが在るのかもね”(「ジョジョリオン」27巻)

わたしはもう長い間、「一番好きな映画は?」と訊かれることがあれば「ビッグ・フィッシュ。」と答えている。
その時々によって自分の中の流行りというか「今はこういう映画が好き」みたいなモードはあるのだけれど、これだけはずっと一番取り出しやすい場所に置いてある。それはきっと、これが映画、もっと広く言うなら「物語」に触れるとはどういうことなのか?という本質的な問いに、わたしが知る限りもっとも簡素で美しい答えを出している作品だからだ。

ストーリーは、シンプルな親子関係の話だ。
ライターのウィルは、父エドワードと疎遠。父が語る自らの半生はいつも冒険やファンタジーに満ち、人を魅了する。ビリーも幼少期はそれを信じ憧れていたが、成長とともにその虚構に気づき、うんざりしている。「父さんはサンタと同じだよ」。
父の病を期にもう一度本当の父の姿を知っておきたいと考えたビリーは、父の足跡を辿ることにする。

映画は、父エドワードの回想と現実の時間軸とを行き来しながら進行する。
回想シーンは常にティム・バートンらしい幻想的なムードをたたえ、おとぎ話としての印象を色濃く伝えている。淡い薄靄のような光に包まれた映像は柔らかくドリーミーで、限りなく美しい。幻想的に仕立て切ることで、荒唐無稽で「できすぎ」なホラ話に逆にフィクションとしての説得力を与えてしまうというアクロバットを決めていると思う。
また、登場人物としてダニー・デビート、スティーブ・ブシェミといった名バイプレイヤーたちが彩り、見どころの一つになっている。

幾つかある「ホラ話」の中心的なエピソードとして、森の中の「スペクター」という小さな楽園めいた町を訪れた話がある。
主人公(父)が大人になるための通過儀礼的な役割をもつ挿話であると同時に、spectreとは幽霊や幻という意味であることから、あの世(虚構)とこの世(真実)の境界の象徴としてもこの町は位置していていると考えられ、後半の展開にも重要な意味をもってくる。

相反するような虚構と真実だけれど、実は互いを支え合っているような存在ともいえる。
真実を根っこにして生まれる虚構もあるし、虚構によって補強される真実もあるだろう。ともに裏返しの存在だ。
この映画は、そんな虚構、つまりフィクションや幻想のもつ力を最大限肯定している。虚構には語り手自身の輪郭が「想い出」や「夢」を変奏する形で詰め込まれていて、時には事実を列挙した書類や言葉以上に、その人自身を表す。

つまりこう言ってしまいたい。
誰かの語る物語に触れるということは他者を理解することであり、愛することなのだ。というシンプルな回答。

そして耳を傾け受け容れたとき、その物語は聞き手の一部となり、次の物語を生む。
誰もがそれぞれのスペクターのような、「想い出」や「夢」が還るための場所を持っていて、その存在と拡張が現実の生を生かすのだと思う。

映画では最終的に、ウィルが父エドワードの物語を真実も虚構もひっくるめて引き継ぎ、二人で物語をともに紡ぐ。
とある一章の結びとして、これ以上の贈り物があるだろうか?

付け加えると、この映画はそんな虚構の力の正しい使い方もまた示しているようだ。
父エドワードは決して百点満点の人間ではなかったかもしれないけれど、そのホラ話は誰かを傷つけるために使われたことは一度としてなかった。物語は共有され、他者理解の一助にされてこそ本来の輝きを失わず、受け継がれ、誰かの生とともに「続いていく」。

わたしが何か新たな映画に出会うとき、あるいは誰かの話を聴くとき、どんなときもこの「ビッグ・フィッシュ」を透かしていると思う。そしてそのたびわたしはスペクターにもう一度帰り、扉をたたくのだ。

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Fish Storyとは「ホラ話」を意味する。ここ日本でも「逃した魚は大きい」などと、ここには「ない」ものの価値を大きめに見積もる諺があるのは面白い。