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今日もまたかくてありなんのmのネタバレレビュー・内容・結末

今日もまたかくてありなん(1959年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

最近、湘南への興味関心が高まっている。
子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。が、僕は知者ではありません。

ある夏、若く貧しい一家が辻堂の家を貸すことになる。夫である高橋貞二は東京の同僚のアパートに身を寄せ、妻・久我美子は息子と共に軽井沢へ帰郷する。そこで彼女たちが出会う中村勘三郎は、戦争で多くの部下を失ってしまったことに対して深い後悔の念や、形而上的な罪の意識を抱えている。そのため、彼は「今日もまたかくてありなん」「半径3m以内の幸せ」とささやかな生き方を送っている。彼は仁者として、静かに生きる存在なのだ。

町に三国連太郎らヤクザが跋扈し始めた中、彼が無力な者として生を樹立するために執った行動は真剣味を帯びた行為ではあったが、観客である私たちの胸に残るのは大きな喪失感だ。泥試合には生命の高まりが存在しないことを示すかのように、長回し遠写がその惨劇を静的に映しているためだ。

風鈴の音は異なる表情を見せ、若大将シリーズでお馴染みの藤山陽子(本作の名義は藤美恵)に勧められて喉自慢大会に参加するも、3等になってしまった小坂一也の歌声との対照の妙を響かせている。
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