荻昌弘の映画評論

アメリカの裏窓の荻昌弘の映画評論のネタバレレビュー・内容・結末

アメリカの裏窓(1960年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 これまでの記録映画は、リポートだった。どんなに驚くべき対象をみつめても、作者は、事実だけを記録して自分の驚きは記録しようとしなかった。それだから“記録”映画と呼べるのだ、と誰もが信じ誰もが疑わなかった。
 この「アメリカの裏窓」はちがう。この作者フランソワ、レーシェンバッシュは、アメリカを見てまずその異様さに驚き、自分が驚いたまんまのアメリカを絵に記録しようとした。彼を驚ろかすに足りないアメリカなんぞは、たとえナイヤガラの爆布だろうと、用はなかった。むしろ、アメリカよりアメリカに驚いた自分が大切だった、というわけだ。
 この記録映画が、映像によるエッセイ、と批評されるわけはそこにある。画商である彼は、ナマのリンゴより、セザンヌの描いたりンゴのほうが大切なことを、よく知っていたわけだ。
 だから私たちは、この映画で、“彼の驚くべき”見方を通して、はじめて“驚くべき”アメリカを見る。おもしろさが二重になっているのである。
 開巻の金門橋。陽を受けて文字通り金色に浮き上る橋そのものもすごいが、その下を、大声あげながら走りぬけるキャメラワークは、もっとすごい。
 このトップ・シーンから、朝日に輝く摩天楼のガラス窓のラスト・シーンまで、私たちはたえず、撮った人の眼と、撮られたものの真実と、その二つの魅惑の攻勢に、陶然と心ゆさぶられて目がそらせなくなってしまう。
 一口にいって、レーションバッシュがいちばん驚いたアメリカとは集団主義というか、画一主義というか、規律主義というか、ともかく“マッス”のばかでかい非人間性の中で一人一人の市民は何と人間的に生きていることか、というそのコントラストだったにちがいない。囚人のロデオから双生児大会まで、この対比をみつめる作者のおどろきは、胸の温くなるようなアメリカ人への愛情に高まって、観る者へ迫ってくる。
 この映画が私たちを圧倒するのは、記録映画に主観主義という突破口をあけたその新しさ、だけではない。やはり、対象に対する限りない愛情が、作品を美しく清めているからなのである。
『映画ストーリー 10(11)(123)』