ケーティー

早春のケーティーのレビュー・感想・評価

早春(1956年製作の映画)
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おそらく現代では上映できないサラリーマンの現実を描いたシリアスな作品


まるで「昼顔」のような不倫ものを想像したら、面食らうだろう。本作は、浮気をストーリーに組み込んでるが、あくまでも切実なサラリーマンの現実を描いている。それはしかも、今と変わらないことを描いているのだから怖い。
映画を多産している時代だから、この企画が通ったのかもしれないが、本作ほど絶望的に現実を突きつける作品は、今の時代だと興行的に難しいし、おそらく上映(制作)不可能な作品だろう。また、ここまで緻密に描くことのできる監督や脚本家もいないかもしれない。(サラリーマンを題材にしてきたとはいえ、なぜ小津監督や野田さんの脚本はここまでリアルに描けたのかは気になるところ)

映画は、相手への感謝や労りを忘れた夫婦の日常から始まる。何気ない生活の描写で夫婦のすれ違い始めた関係とその危うさを表現するあたりがまずうまい。

そして、さらには、主人公の仲の良い会社の先輩2人を見せるが、1人は会社を辞めており、もう1人は地方に左遷された人で、嫌な奴が役員になったと3人で話しているのだ。(また、主人公自身も役員にそもそもなること自体、倍率から考えて難しいことを自覚している)ここで、主人公の将来の先行きが暗く、絶望を現実に突きつけられていることをしっかり見せて、不倫・浮気へとつなげる。このあたりは、満員電車の話題やサラリーは上がらないと仲間たちと話させるところでも補強している。さらに、極めつけは、病気のまま何もことをなさず死にそうな会社の同僚の存在である。彼の存在により、会社員生活が空疎であることに直視せざる得なくなる。

こうした不倫・浮気の前提となる主人公の絶望は何も特別なものではなく、今と変わらない普遍的なサラリーマンの問題であるという深刻さがある。ただし、今日よりもこの映画をシリアスにしているのは、主人公やその周りの人物たちが帰還兵であることだろう。せっかく生きて還ってきたのに、彼らに待っていたのは会社員としての空疎な生活だったのである。この生活をするために、生きて還ってきたのか。そのシリアスさにより、より深淵なテーマ・メッセージが作品の底流に流れている。

映画の序盤で、なかなか不倫・浮気の話にいかず、セットアップに時間がかかりすぎて展開が遅いと初めは感じたが、最後まで鑑賞すると、不倫・浮気はあくまでも道具立てで、会社員の絶望が作品の根幹だからこそ、ここは外せないと考えたのだと納得した。

会社員の絶望は作品の根幹であり、そのシリアスさが底流に流れているが、そこから導き出される本作のテーマは“許し”なのではないかと感じた。戦場からまさしく血を吐くような思いで生き延び日本に還ってきたのに、そこに待っていたのはサラリーマンとしての現実であり、さらに主人公は子どもすら夭逝しているのである。彼は、何かを許していかないかぎり、生きていくことはできない。それは、未来がないとわかっていてもサラリーマンを続けることなのか、不倫という罪を犯すことを自らに許し、精神を保つことなのか。それこそが、この作品のストーリーのより深い部分での幹であり、それが解決とまではいかないが、上の2つとも違う1つの答えをラストに生んでいく。


※以下は、ネタバレになりうる記述を含みます










そして、その“許し”という切り口は、家族の強さの本質であると本作は表現する。家族だから相手を許すことができるという一面は実生活でも確かにあり、他人なら付き合わない・関係ないで立ち切れるが、そうはならないことが良くも悪くも家族ならではの側面だと思う。ただし、そういう意味では“許し”が家族の結び付きを強めることを描いた本作と違って、同じ小津監督の「東京物語」は“許し”が家族との程よい距離感を保ち家族を継続させることを描いており、対局の作品ともとれなくもない。ただし、両作に通じるのは血縁関係のない人間との、家族としての強い絆であり、血ではない家族の結び付きを描くというのは、小津監督あるいは脚本の野田さんの作家性ともいえるのかもしれない。(「晩春」などはまた違った方向性であるが)


【補足】本作の好きなセリフ
「間違えはお互い努力して、小さいうちに片付けろって……これ以上、不幸になるなって……」