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夫婦善哉のkojikojiのレビュー・感想・評価

夫婦善哉(1955年製作の映画)
4.1
No.1681 1955年作品

 ゴールデンウィークも今日で終わった。
久しぶりに家族が揃った。その喧騒の日々は子供達の声だけを耳に残して、あっという間に過ぎさった。残されたのは音が消えてしまった日常に佇む老夫婦。
 この日、人生という、日ごろは姿さえ見せない抽象球体の一部が剥がされ、そこに深い穴が空く。哀しみでも、焦燥でも、恐怖でもなく、諦観でもない、真理と呼ぶには曖昧すぎる、やはり穴としか言いようがないものだ。それがぽっかりと心の中に広がる。その穴を覗き込みながら振り向くと、そこにはいつもと変わらず微笑み、叱咤激励してくれるただ一人の道連れがいる。
「ああっ」と私は思う。


急に「夫婦善哉」が観たくなった。
言うまでもない織田作之助の小説「夫婦善哉」が原作。監督は豊田四郎。

 曾根崎新地で売れっ子芸者の蝶子(淡島千景)は、大阪の化粧問屋の道楽息子である柳吉(森繁久彌)と駆け落ちする。二人は滞在した旅館で関東大震災に遭い、大阪に帰ることになる。しかし芸者にうつつを抜かした柳吉に愛想を尽かした父親が柳吉を勘当する。
 生活の糧がない二人は、やむなく蝶子の実家の二階を新居とする。生活のため、蝶子は芸者に戻り、柳吉は親の勘当をなんとか解こうとするのだが…。

 主演の森繁久彌と淡島千景の演技力がすごい。
 まずダメ男の典型、柳吉役の森繁久彌。優しいが頼りなく、怒りっぽくてだらしなく、しかしなぜか惹かれてしまう男の複雑な感情の起伏を見事な演技力で見せてくれる。
まさに職人芸。
豊田監督の演出の素晴らしさだろう。
森繁久彌の典型像はこの映画で作られたに違いない。
三船敏郎の用心棒のイメージのように、この森繁久彌の柳吉像は、この後の彼の数々の映画の典型像となった気がする。
このイメージを派生させれば、面白い映画はいくらでも作れる。それが見えた映画ではないだろうか。

 それは淡島千景にもいえる。
私が映画を見出した頃には彼女はすでにおばさんのイメージだったが、それはまさにこの役のイメージが重なる淡島千景だった。ただ違うのは、この映画の頃はそれに女の可愛さが加わることだ。可愛くて、きっぷが良くて、生活力があって、力強くて、しかし女の弱さを時に垣間見せる。我々のちょっと前の世代なら、きっと理想的な女性像だろう。それを彼女の得意の役柄にした。そんな映画ではないだろうか。

 映画は夫婦善哉だが、夫婦というより「男と女」の物語だ。
その愛憎劇というのにさらに愛を加えたようなこのドラマは、二人の演技に笑いながら、いつしか明日の元気をもらったような気分になる。
傑作だ。
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