ニューランド

山河ありのニューランドのレビュー・感想・評価

山河あり(1962年製作の映画)
3.4
✔️🔸『山河あり』(3.4)  及び🔸『銀座カンカン娘』(3.3)▶️▶️

 高峰秀子は映画を見始めた頃変な癖があって、言い回しなど、あまり上手くないなぁと思ってきた。併せてあの気遣いや立場を考えない、素ではあのぞんざいな性格だ。真平ご免でもあった。だが、木下や成瀬(更に嘉次郎ら)の映画への心酔が二十歳位から強まってくると、彼女はそれらの傑作映画の切り離せない一部、戦中から戦後の日本の、歴史を体現・受け入れながらも、日本の権威にへつらわず、世界の常識押し付けをはねのける、日本庶民が譲るべきではないものの毅然とした本音を呟き止めなかったひとでもあると、印象が素直に好転してきた。そういった、発表年は前後するも、日米戦争の感傷的総括、それを意図的に振りきってく前後再出発伝える、2作。
 『山河~』。「追い出された経緯でも、生まれた国。見返してハワイの土に、では済まないものが。錦を飾り一度は戻りたい。言葉にならない感情がある」「祖国などない。日本人でもアメリカ人でもない。アメリカの為でも日本の為にでも戦うのではない。ただ、人間としてその平和の為に戦う」「一世と二世では考えも違ってる。しかし、この戦争で最も苦しんでるのは我々。意見の合一など無理。只、自分の信念は貫いて欲しい」「結婚に反対はした。しかし、子が生まれるには祝うしかない(同時に死者には、立場を超えて見送りは外せない)」
 松山以上に、久坂の説明を超えた実感が行き届いてる、日米間の移民や戦争に係わっての政治より国民感情の推移考察劇。目に見える救いは、ドラマよりも、現実の実態が敷き詰められ現実側に寄り、時勢で資産凍結・日本国籍人収容はあっても、非道ぶりは米国にやや少なめに画かれてはいる。大正初期にハワイに移民した三人に、迎える婿を入れて二家族、子も出来八人になるが、30年後太平洋戦争終結時には、心労や爆撃で各々片親が失われ、妻の残った側の二人の息子は、二世部隊志願や日本帰国中の抑留拷問で死んでる。同世代同性同士はつよい親友であり異性間は恋人にも、そこには戦後には子が生まれてる。奴隷的農園働きから別職独立成功者の長いスパンのドラマから、紀元2600年祝典時の世代間の口論中憤死からの数年が、密度詰まり物理的には引き裂かれへ。夫遺骨を届けに帰国中に大平洋戦開戦、国籍異国人二様の抑留収容。二世部隊志願の意味。秀子・桂樹の型通りをはみ出さぬ意志貫き。
 いつもながら木下の義弟楠田のカメラの天才と平明。長めフォロー速度自在でスクエアの向き左右交錯、止まりめ対象へも前を横切り回り込みめや急に寄る、俯瞰へ上下に、らの素材を超えたカメラの移動とバランス。鋭い傾き図続きや、光入り込みや自然の葉らアップ手前かすめ、大字字幕入れや白めスモーキー取り入れ、広大でヌケいい大L図・シンメトリーや巨大感・白め、のハワイパート。日本は閉ざされ黒め。この素材とのマッチ感、批評感、今一つ判らずも、日本的感性の広げには違いない。今村より着実で確かな基底描写。
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 『~カンカン~』。「敬遠するのではなくて、踏み出してみれば拓けてくるものも」「暴力に応じなかった事で自分の事を誇れたのさ」「芸術には都会も田舎でも、変わらない。只、向こうには無いものが。君を連れてければ」「主と言いながら、かかぁには陰でお礼してる。なんでぇ、まだ行かずに聞いてやがったのか。お後が宜しいようで」
 各種ワイプ進行やサイズも大小切替えての平明切返し、縦横角度変えと各やどんでんしっくりの庶民一堂の場、郊外ひと気少の自然と銀座のクラブのセットの共通化不思議な広さ、場末ショービジネスと周辺風俗、身のこなしやコラボシンメトリー図らへの日常への歌唱リズムセンス入り込み、犬や家具落ちの人懐っこいギャグ引っ張り、そして、志ん生・笠置・灰田らのなまめかしく揺らぎながら、滑らかさと刺しくる鋭さの貴重なフィルム定着とある程度の真価。
 引退し家計考え復帰考えてる損得勘定や権威等無縁の落語老師匠、その妻と小学生孫娘のうちに、居候の・師匠の戦前恩人の娘の若き画家、その友でついで居候歌手。師匠の甥で失業より合唱団閉鎖を惜しむ青年も良く出入り、犬を拾ってもくる。彼と画家の間に育まれる恋、その前に偶然の映画ロケ参加から、そこのエキストラ大男との誘いで四人のクラブ制覇へ、師匠の立ち退き応じも制す反響、そして各種別れと再出発。
 伝説の芸らと、ベタベタ後腐れ作らぬ考え方・行動が、調子や割りきり良すぎるも、戦後日本の指針の一部にも。半端作な所が、逆に心地いい。
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