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ヒマラヤ 運命の山のodyssのレビュー・感想・評価

ヒマラヤ 運命の山(2009年製作の映画)
3.5
【登山家と現地人】

別に映画に限った話ではなく、小説だとか美術でも同じだと思うけど、作った側の意図とは別のところに注目してしまう場合がある。

この映画も、多分、私にとってはそんな映画だった。多分というのは、製作側の意図を正確に知っているわけではないからだ。

私には登山の趣味がない。海外の何千メートルという高峰はむろん、クルマで十キロのところにある標高数百メートルの山にだって行くのはまっぴらだ。クルマで頂上まで行けるなら別だが。

そんな私でも、登山映画に唸ることはある。『運命を分けたザイル』なんかはその典型。登山のきわどさ、その場その場での判断の難しさを丹念にたどった秀作だった。しかし登山映画がいつもそういう感銘を催させるとは限らない。

この『ヒマラヤ 運命の山』を見て私がいちばん印象に残ったのは、現地人の表情である。主人公(兄のほう)がぎりぎりのところで決断してベースキャンプとは反対側の方向に下山して、瀕死の状態で現地人に拾われる、あのシーンである。

現地人はヨーロッパの登山家をどう見ていたのだろうか。また、現地人にとっては高峰はどういう意味があったのだろうか。

ヨーロッパの登山家にとっては、中央アジアの高峰はとにかく頂上をきわめるべきもの、或いはすでに頂上がきわめられているなら誰も通ったことのないルートを通ってきわめるべきものだった。悪く言えば「世界で初めて」ということで名を残したいという功名心と結びついていたわけだ。

一方、山に近いところでふだん暮らしている現地人は無理をして頂上をきわめようなどとは思わなかった。山は彼らにとって何だったのか。信仰の対象だったのか。或いは危険で近づかないほうが賢明な場所だったのか。とにかくふだんの生活とは無縁な場所だったことは確かだろう。

とはいえ、ヨーロッパの登山家だってある程度の地点に行くまでには現地人のシェルパに頼らなければならないし、そのことはこの映画でも触れられている。そういう「内省」みたいなものがこの映画には含まれていて、純粋に登山映画として見ることを妨げる。

妨げるから悪いと言いたいのではない。そういうタイプの映画だ、と私は言いたいのである。それが製作側の意図であったかどうかは分からないけれど。
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