レインウォッチャー

夢二のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

夢二(1991年製作の映画)
4.0
画竜点睛という言葉は竜の画に瞳を入れること、転じて最後の仕上げを成す意だ。そして、今作で夢の侵食に苛まれる画家・夢二(沢田研二※1)にとっての竜の瞳とは即ち「振り返った顔」である。

映画の冒頭、人混みをかき分け追い縋る夢二の手からすり抜けるように浮かび上がる、白い着物に赤い帯の女。彼女は背を向けたきりだ。夢二の周りにいる女たちも、みな後ろ姿。すると謎の紳士(やはり彼も後ろ姿だ)が語りかける、「顔が見たいか」「身の程を知らぬやつ」と。
この言葉はひとつの呪いとなって、夢二を、そして映画全体を覆っている。

幾度となく繰り返される、後ろ姿のイメージ。登場人物たちが会話するとき、度々向かい合わず、正面と後ろ頭がすれ違いに並んで立ったりする。
この奇妙な構図に加えて、長巻物をほどくように横方向へするすると滑るようなカメラの動き、襖・障子・畳といった和室を構成する幾何学の強調などが、彼らを平面的な世界、つまり画の世界へと塗り込めていく。

色に耽りフラフラと女から女へ遊び歩く夢二の姿は、同時に所在なさげでもある。女ばかりをモデルとする彼は決定的な「顔」を探しているが、何かと理由をつけてそれと向き合うことを避けているようだ。
振り返った顔がどんな表情をしているか…ひとたび知ってしまえば、画も、彼の人生もひとつに決まってしまう。だから彼は、いつも待ってばかり・逃げてばかりだ。駆け落ちの約束をした女・彦乃(宮崎萬純)を、呼び寄せようとしているようでつかず離れずのすれ違いを続けているのも、その意気地のなさの現れなのかもしれない。

鈴木清順の「浪漫派三部作」三本目、つまりこの映画もまた「竜の瞳」なわけだけれど、その印象は三本の中で最も軽やか、えっちでユーモラス、赤青黄の和サイケ。

大正の美人画家、竹久夢二を題材として…いるとはいえ、映画の夢二は史実の夢二そのものではないようだ。
わたしの中では、竹久夢二の美人画たちってどちらかといえばポスターデザイン的なポップさがある「洒落た」イメージだったので、今作の夢二がもつ、欧州からジャポニズムを逆輸入したアヴァンギャルド春画のような淫靡さだったり、「抱いた女しか描けない」みたいな言葉は意外だった。

とはいえ史実の夢二も女性関連の放蕩には事欠かなかったようで、彼の人生を彩った「三人の女」についてはよく語られている。今作でもそれに相当するような女たちが登場する(毬谷友子の妖しさよ!)けれど、少しずつ名前も立場も異なる。

竹久夢二の人生を一度解体して、色が濃い部分を継ぎ合わせて凝縮した、そんな物語といえるのかも。そのへんひっくるめて、これはまるであり得たかもしれない別次元の話というか、『アクロス・ザ・夢二バース』だと勝手に納得して観ていた。(と思ったら、夢の中で複数の別の自分と会ったりもするので意外とない話でもないのだ。)

『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』から引き継ぎ、繰り返される要素も多々あるけれど、特筆すべきはやはり「水」が夢と現=生と死の境として使用されている点だろうか。さらに、今作ではその境界がついに溶け合っている。

シンボルとなるのが湖で、この上を夢二と女たちは何度も通るし、屠殺した牛の血が流れ込み、死んだと思われた男が水中からよみがえる。
旅館の女将(大楠道代)は、「湖の途中に県境がある」という。水の上に線を引けないように、この映画では境界が機能しない。夢は常に夢二にまとわりつくのだ。

しかし、最後にはついに竜の瞳と向き合うことになり、夢二と彼の画は史実へと帰ってくる。待ち疲れた諦めなのか、果てを見た覚悟なのか。夢の終わりは映画の終わり。ただ現実よりも鮮やかで甘い、それだけのことだ。

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※1:夢二を演じた日本のカサブランカ・ダンディー、沢田研二akaジュリーは、好き放題の映画のおもちゃにされている。これを演技力というのかどうか、わたしには判別つかないけれど、まるでポンチ絵に描かれた人物のようなデフォルメ加減は何周か回って唯一無二と思わせる役となっている。