知的障害については、この映画の時代よりも随分と一般的理解が普及したから、子供時代はともかく、大人になってからバカにされて嗤われるということは少なくなったと思う。
しかしながら周囲の人のサポートの重責を考えると、やはり外科的手術によりその負担が軽減され、自身のQOL も飛躍的に向上するなら、それは意味のある研究だとも思える。
私は未読の原作は、チャーリーの一人称視点で描かれているそうだから、その変化を文体で表す傑作なんだそうだ。
それを映像化して、なにを主題に置くのかが難しいところだろう。
知能が進化し見えなかった事、見なくても良かった事が未熟な精神性に押し寄せてくる部分は、あまり上手く視覚化できている様には見えなかった。
やがてアルジャーノンに起こる事象が自分にも当てはまることを突き止めたが、精神性が未成熟なわりに、悟る様にそれを受け入れる。
先生との別れもあまりダメージが見えないまま、知力退行する。
チャーリーの内的思考の経緯にはあまりフォーカスされず、物語は終わる。
これでは名誉欲に駆られた医師達が性急な人体実験をチャーリーに施した顛末を追う映画になっていると言うしかない。
脳に未開領域に人類が不用意に踏み込む事に警鐘を鳴らすと言う、クローン技術に通ずる宗教的観点からの事だったのだろうか?
‘60年代だし。