がんびーの

鏡のがんびーののレビュー・感想・評価

(1974年製作の映画)
4.2
やっと見れたタルコフキーの傑作。
彼が作るものはどれも傑作と言われているが、本作品は彼の自伝的な(もはや自慰的な)映画であるだけに、タルコフスキーを知るならこれを見ねば!というシネフィルが多いらしい。かなり難解な内容ではあるが、僕は何故か最後不思議と納得できたので点数高くした。まあ内容がいまいちでも鑑賞者を唸らせる映像がとまらない、というかそれしかないので高いんだけどね。

観終わって一番思ったのは、タルコフスキーが親の愛をしっかりと感じていないが故に、この作品で『自分に対しての親からの愛(特に母の愛)』を正当化させようとしたのでは?ということだ。作中で『君を見るとき僕は母を思い浮かべる』という気持ち悪いセリフが飛ぶのだが、ある意味これは本作品の核をついていて、男性及び人間が本能的に持っている『母性を求める欲求』が、現在・過去・大過去・夢の交差した記憶を飛び回りながら、妻と母(作中では同一人物が演じている)という二人の偉大な「女性」を作り上げているのではないだろうか。そしてその飛び交う断片的な記憶の架け橋として『鏡』が存在しているように感じた。

記憶は、その物を覚えようとするのではなく、その状況や感覚を覚えようとすると定着しやすいと耳にしたことがある。つまり、テストのために英単語を覚えるとして、その単語自体を覚えようとするのではなく、その単語を覚えようとしている状況を覚えるということだ。本作品における鏡の役割もそれに似ていて、常に描かれる記憶のどこかに鏡がある、つまりタルコフスキーは鏡という共通の物体を利用して母や妻を記憶し、そして結びつけていたのではないだろうか。その鏡を通して見える、燃える納屋や屋根の桟から滴る水。それがタルコフスキーの誇張された芸術的な記憶の断片であり、我々第三者はその記憶を垣間見ていると言える。

ラストは圧巻。バッハのヨハネ受難曲に合わせて、風が靡く草原にそれぞれの記憶の断片が集合する。タルコフスキーを産む前の母、幼いタルコフスキー、晩年の母、遠くにいるのが妻かタルコフスキーか父か…(わからない…)。このシーンがあるおかげで、それまでの難解な2時間弱がまとまった。

途中途中で入る各戦争の記憶は果たしてどういう意味があるのか。いまいちわかんなかった。それが時の経過を表しているのか。タルコフスキーの表面の記憶的な。

もう一回見よう。
がんびーの

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