小さな小さな村で行われる風変わりな葬式を取材しに来たテレビクルー達。
彼らの仕事は危篤状態の老婆が亡くなってから始まることになるが老婆は一向に亡くならない。
働き盛りの若者達は畑仕事に出ているので村には老人と子供しかいない。
活気に乏しい小さな村で、仕事の始まらないクルー達はじっくりとその時を待つ。
関守を持たず滞りなく過ぎ去る光陰。
そこにある時間はまるで死を浮き彫りにするかのようでいて、生を克明に刻みつけるかのよう。
異様な時間だ。
しばらくしてから僕は旧約のコヘレトの言葉を思い出した。
憂鬱な詩人は人生におけるさまざまな時を引き合いに出しながら、天の元の全ての営みに時があると歌う。
全ての営みに時がある。
この言葉の意味が本作を観ながら少しだけ理解できたような気がする。
ごく一般的に時を捉えると、
"私"の中に"時"があるというふうに考えるものだと思う。
私が〇〇を見た時間、
私が××を聞いた時間、
私が△△を行った時間、といったふうに。
そうだとすると、"私"がいなければ"時"は無くなる。
いわば、時という物を包括する私といった感じだ。
全ての営みに時がある、という時間の捉え方はこれとは逆なのだと思った。
私を包括する時がある。
まず1番に、時というものが存在している。
そしてそれの中にひょっこりと私が現れて消えていく。
そう考えれば私がいなくても時が成立する。
私の前には全ての営みに時があったし、これからもある。
こう考えると、あの時、この時、みたいに分断することができなくなる。
過去も未来もなく無限に持続する現在の中に私が在る。
だから死ぬ時と生きる時はお互いを含み合うものになる。
死臭が漂う墓地の上で豊かに暮らして、豊かに暮らしながら棺に足を収めていく。
コヘレトが歌った時間、本作に流れた時間はそのようなものだったのだと思う。
そして水が至って渠が成るように、人は"私"を捨ててゆっくりと"時"の流れに帰っていくのだと思った。