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人狼 JIN-ROHの3110133のレビュー・感想・評価

人狼 JIN-ROH(1999年製作の映画)
3.9
群と個として生きること、一人の少女の物語

昔から好きな映画だったが、香港の世情から思い出し、久々に見直したので書いておく。

押井守のケルベロス三部作、第二次ワイマールの統治下にある日本というフィクションの世界をベースに、寓話赤ずきんをアレゴリーとして群と個としての人間のあり方を描き出す。

解釈の結果を言ってしまえば、これは赤の運動の最中に死んだ、名も知れないひとりの少女への救済の物語だろう。

群と個は対立関係にあるわけではなく、個は群の内にしか存在し得ない。
群=家族=組織、それを拡大していけば国家や時代となるだろうが、わたしたち個人の生はその群の内にあり、その群の力に翻弄されている。
群の力に抗うことが個としての生のあり方として輝かしいものであるというロマン主義的な、あるいはアメリカナイズされた自己実現論的なお話は分かりやすいが、この物語はそうではなく、組織の力に従うことと個人との交点における生を描き出す。

伏の生=性のイニシエーションと組織の一員となる=狼となることのイニシエーションとが、少女を殺すこととして重なり合う。少女もまた群の一員として死ぬことでそれに応える。あるいは少女自身も赤ずきんとして狼に食われること自体が組織・個としての生のあり方そのものだっただろう。彼女は組織を鞍替えはするが、組織というものから逃れることはできない。

そう考えるとけっこう悪趣味というか吐き気をもよおすのだけれど、歴史をみてみると人間の生のあり方が組織と個の重なり合いにあるという事実は無数にあって、というよりもそうでしかないと言ってもいいことに気がつく。組織から切り離されたところで実現可能な個などというものは、それこそロマン主義的な空想でしかない。

私の祖父や祖母、曾祖父たちの生は、暴力的に群=国家、歴史の影響下にあった。ヒストリカル・イフとして戦争がなかったら彼らの生はどのようなものであったか。戦場で人を殺したり、彼ら自身も傷つくこともなく、思い通りの教育を受けることができただろうか。それを考えてみても、そこで想像される彼らはもはや私の知っている彼らではない。国家の一員として生きたことで人を殺し、眼球を抉られ、学校を出ることもできなかった彼らが私の祖父たちなのだ。
個の生は歴史・群と共にしかない。

赤ずきんの物語と彼らの生とが重なり合っているが、ここにわたしたちの生がそのままに捉えがたいということを見ることができる。わたしたちは生あるいは存在の無意味さ、あるいは意味の過剰さを前にして、なにか物語として造形することでしか、それをうまく受容することができない。メタファーあるいはアレゴリーとして描き出すことは単なる言い換えや連想遊びや装飾ではなく、形象の力そのものである。
彼女の生は組織と共に、そして赤ずきんという物語とともにしか生きられることがなく、伏の生はその物語に組み込まれることで利用され、同時にそこで彼もまた生きられた。
赤のために命を落とした少女が実在したかどうかは重要ではない。そういった生のあり方があり得た歴史とともに、わたしたちが生きているということ。わたしたちの生もまたそうでしかないということ。

そこで重要なのは、彼女たちの「存在している」というリアリティに他ならない。それはアニメーション=アニマを与えることそのものにある。身体の動きやスカートの揺れ、薬莢の飛び散り方ひとつひとつが魂を作り出す。

いまの香港の情勢を注視しつつ。
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