YasujiOshiba

バタリアンのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

バタリアン(1985年製作の映画)
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U次。23-54。ようやくキャッチアップ。評判通り。やっぱり時代を超えて話題に登り続ける作品は違う。『ナイト・オブ・ザ・リヴィング・デッド』(1968)にオマージュを捧げながら、典型的なアメリカン・スラップスティック・コメディに仕立てた快作。

NewYorkTimes紙の Stephen Holden からは「Mordant punk horror」と呼ばれる。「噛み付くようなパンク・ホラー」という意味だけど、まさに無敵なリヴィング・デッドたちが、ブリリアントなジョークとストーリーテリングに乗っかって「噛みつきまくる」(mordere)から「強烈な」(mordant)コメディになったんだよね。

物語は医療用品倉庫から始まり、隣接する葬儀社と墓地のあいだで展開。だからスピーディで閉塞感もある。最初に登場する社長バートと社員のフランク、それに新入社員のフレディの3人が、最初からかましてくれる。軍の特殊ガスで動き出したリヴィングデッドを前に、ドタバタしながら頭をやれとばかり、ツルハシを打ち込むのだが、そいつは動くのをやめない。そこでこんなやりとり。

バート:脳をやったら死ぬって言ったよな。
フランク:映画ではそうだった。
バート:でもフランク、うまくゆかないじゃないか。
フランク:映画が嘘をついたって言うのか?

そうこうしている間にも暴れ回るリビングデッドは、あのリビングデッドじゃないというわけだ。だからびびりまくる男3人。最高のドタバタぶり。それでもソイツをばらばらにすると、隣の葬儀社のアーニーのところに持ち込む。このアーニーを演じたドン・カルファが実にいい味を出している。最高なのは体半分になったリヴィングデッドの女との会話。

アーニー:聞こえる。
おんな:ええ。
アーニー:なぜ人を食う。
おんな:人じゃないわ。脳よ。
アーニー:脳だけか?
おんな:そうよ。
アーニー:なぜ?
おんな:痛みよ!
アーニー:痛みがどうした?
おんな:死んでる痛み!
アーニー:死んでるのって、痛いんだ。
おんな:腐ってるのがわかるの。
アーニー:脳を食べると、どんな感じなんだ?
おんな:痛みが消えるのよ。

シュールなんだけど、笑えちゃう。これはアーニーのぎょろりとした目がくるくるするお陰でもある。いやはやすさまじく mordant な笑いのシーン!

そこに若いフランクの恋人ティナとその仲間たちがやってくる。こいつらがパンクなんだよね。特筆すべきはすぐ脱いじゃう女の子のトラッシュ。演じたリネア・クイグリーはB級ホラークイーン。

トラッシュは仲間の男の子に、こんなふうにたずねる。「ちょっとあんた最悪の死に方ってどんなだと思う」「考えたくないな」「わたしはね、最悪の死に方って、年老いた男たちの群れに囲まれて、生きながらにして私に噛みつき、食べられちゃうの」「なるほど」「でも最初に、わたしの服を引き裂いて...」。そう言うとトラッシュは墓石の上で自分から裸になって踊り出す。地面の下では埋葬された遺体が今にも蘇ろうとしている。これも名場面。

紛失した毒ガスタンクの捜索責任者グローバー大佐の存在もよい。その妻とのやりとりが最高。この重大さをわかっていないふうの奥さんと、軍人らしくことにあたる大佐。最初の会話が「おかえりなさいませ。お仕事はどうですか?」「最悪だ」「ごめんなさい。でも今日の夕食は大好きんあポークチョップよ」「昼に食べた」。これだけで笑える。そしてこの笑える調子で大佐が捜索にあたっているのが「イースターエッグ」、死体と例のガスをシールドしたドラム。その卵が孵ったらどうなるか。

それこそまさに復活。ナザレが復活し、イエスが復活するまではよいとして、生きとし生けるものすべてが、死の淵から復活して審判をうけること。それが「最後の審判」。英語は「Last judgment」。イタリア語にも「Giudizio finale」という表現はあるkれど、一般的なのは「Giudizio universale」。ゾンビ映画のポイントはこの「universale」(普遍的な)にある。

Universale は universo の形容詞形。「Universo」は「宇宙」とか「普遍」とか訳されるけど、分解すると「uni-」(ひとつに) + 「verso」(向けられたもの) からできた言葉。つまり「すべてをまとめて一つの方向に向けたもの」(volto tutto insieme in una direzione)という意味になる。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の壁画がそのイメージだけど、じつのところゾンビ映画もまた、そんな universale なイメージに溢れているのだ。

なにしろこの映画、焼却炉の炎では終わらないぞとばかり、煙突から噴き上がったガス入りの灰を、雨と共に地上に降り注いでみせる。そして同じイメージを原爆のキノコ雲によって大きく反復してみせるとき、ぼくらはこう納得することになる。やがてすべてのものをひとまとめにしながら、たったひとつの方向へと向かうのだと。

あらゆるゾンビ映画は、そんな「universale」なイメージを反復する。その反復のなかでぼくたちは、あの終わりの時が永遠に先延ばしにされる今を生きる。それがたとえ苦痛の宙吊りにすぎないとしても、今この瞬間だけは快感でもある。笑いながらそんな今の快感にひたらせてくれるのが、この「リターン・オブ・ザ・リビングデッド」。

結局のところ、ぼくらの今とは、生まれて死ぬまでの間隙が有限なのだ。そんなことはわかっている。わかっているよと繰り返しながら、ぼくらはここで、ただ笑うしかない。だから笑おう。

ダン・オバノンはきっとそう教えてれているのだよ。ぼくはそう思う。
YasujiOshiba

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