emily

家路のemilyのレビュー・感想・評価

家路(2001年製作の映画)
4.2
年老いた名舞台俳優ヴァランスはある日、事故で妻と娘と娘婿の3人を亡くし、孫と暮らすことを余儀なくされる。淡々とした日常の中で、テレビの話が入ってきて断ったり、アメリカ映画出演のオファーがくる。代役ではあるが、それを受けることになったヴァランスは、なかなかセリフが覚えられず、なれない英語でのセリフであるため悪戦苦闘する。

冒頭はヴァランスが演じてる演劇が長い間映される。しかも彼の背中越しにセリフを長い間聞かされるのだ。そのあとも大事なところで表情を見せず、必要ないと思われる物を映しこみ、日常を描写する中で、生と死、静と動を繊細に捉え、何気ない日常の大切さ、その中で確実に年老いていく様を切なく静かに描く。

全体に暗いトーンの中で、彼の心の闇を映し出すように、カーテンを開いたそこ先に広がる光の中にはいつも孫がいる。窓の柵越しに孫をとらえ、そこに広がる子供の未来の無限を感じさせる。パリの街並みの2面性昼と夜をコントラストとして描く。日常に見逃しているような街の美しさ、毎日同じ繰り返しの日々の中で見逃してしまいそうな細かい美を重ねていく。ガラス越しに彼の日常を見せ、生活音の中に言葉がかき消される。その中に感情の起伏があれば、それが音として観客の耳に届くのだ。

新しく買った靴についての会話から入る、エージェントとの会話には足元だけが映る。足の動きにはこんなに表情があるのかと気づかされる。しっかり動きに感情が表れており、そのあと顔を映った際に、いかに人は顔を作り人と接しているのかが分かる。そう何気ない細かい描写の中に、気づかされることが沢山あるのだ。

カフェでのシーンにそれが色濃く出ている。いつも同じ新聞を手に、同じ席でエスプレッソを飲む。彼が去った後も、ガラス越しに同じ席を映す。そのあと別の男性が違う新聞を持ち席に座るのだ。このシーンは後半でも繰り返される。いつもと同じ時間の日々がほんの少しだけずれたら?少し遅くカフェに着いたら、別の男性は同じ席に座れず、違う席に座る。しかし外では路上で音楽を奏でる人がいて、いつも感じられない音楽を聴くことができる。いつもとほんの少し違うことをしたら、世界は別の色に見えるのだ。観客にはまるでサイレント映画のように、ただ路上の音楽だけが響いている。カフェでのやり取りは、非常にコミカルに描写され、作品の中でよいスパイスとして光っている。

観客が見たい部分を映さず、まるで不必要に思われる部分を映す。その後どうなったのかは描写されず、違うところで想像させ、また予想もしてないところで、あらゆる産物を観客の残してくれるのだ。

終盤は英語でのセリフに、記憶もついていかず苦戦する彼。それでも若くみせるためのメイクとカツラで変貌した彼は、自身も驚くほど若々しく、可能性に満ちてるように感じさせる。しかし年齢は平等であり、それに逆らうことはできない。俳優として走り続けた彼のラストはあまりにも切ない。一番見てほしくない人がそこにいる。未来だけを見据えてほしい人がそこにいる。帰る場所がある。帰れる場所がある。ただ家に帰るのではない。それは望みながらも拒否してきた家路なのだ。その時がきた。しかしこれでやっと楽になれるんだろう。
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