映画漬廃人伊波興一

家路の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

家路(2001年製作の映画)
4.6
この映画で描かれる「老いの狼狽」は「若気の至り」に対して優位に立つ残酷さに満ちております。   マノエル・デ・オリヴェイラ「家路」

定年や引退と無縁の仕事を続けてきた私自身、この映画のミッシェル・ピコリほどでは無いにせよ自分の年齢を意識的に無視できます。
が、本来そのような者には「老い」は残酷なくらい唐突な筈。
ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』のテーマ曲で幕が上がるこの作品はいきなり舞台劇「瀕死の王」上演中の劇場へと飛ぶ中、舞台で主役の王を演じているミシェル・ピコリが妻と娘夫婦の訃報でそれまでの循環を断ち切られるかの如く孫との生活を余儀なくされて幕を開ける年齢拮抗映画です。
その瞬間、劇中劇から移行する「主人公である老俳優の日常」という独立した記号が観ている私たちに何かを約束してくれそうな気配に満ち満ちていきます。
通常、年齢の変化は目に見えないほど小さな小さな積み重ねなので、ある日突然「自分の老い」を自覚することはまれな筈。
ですが「老い」は隠しよいうもない。ピコリは妻と娘を失い、ある日突然「孫」と向き合う暮らしを始めることで、否応なしにとても一人で背負いきれない自分の「老い」を自覚せざるを得なくなります。
「瀕死の王」「テンペスト」で主役の老人を見事に演じていたピコリが他ならぬ現実の「老い」に潰されそうになる。「ユリシーズ」で強引に青年役をあてがわれた途端に演技が破綻してしまう残酷さ。
このようにオリヴェイラの何ものも特権化することなく主人公に降りかかるあらゆる出来事を平等に物語の虜にしてしまう戦略が高齢化社会の現代では悲劇的に振る舞うことさえ禁じられているような「老い」への恐れを誰もが共有するしかない、と気付かせてくれる極めて現代的な喜劇と感じられました。
実際にミッシェル・ピコリは孫との生活を拒み役者という衣を頑なまで手放さなかったり、娘夫婦の死に悲観してあっさり自殺などして厄介な状況から解放されることも可能なはずなのにそのことをオリヴェイラは厳格に禁じさせてひたすら狼狽させ、それを「若気の至り」より優位に立たせます。
 物語の起伏を一切認めないように夜道で出会った注射器強盗に、お気に入りの靴を盗まれた時に見せる悲しそうな表情。
さらに台詞が覚えきれず、映画の衣装のまま街をさまよう主人公がバーに迷い込むくだりは文句なく滑稽です。
この作品の撮影時にはとうに90歳を超えていた筈という現実に直面していた、他ならぬオリヴェイラ自身が意識的に「老い」への残酷さに徹してるからこそ単なる劇中劇人物にしか過ぎないと思われていたレオノール・シルヴェイラやシルヴィー・テステュ、カトリーヌ・ドヌーブ、ジョン・マルコヴィッチなど数多(あまた)の名優たちに老いていく主人公ピコリへの静謐な凶暴さを垣間見せるような豊かな表情を与える事になったのだと思うのです。
その静謐な凶暴さに10年後、20年後の他ならぬ「老いた私たち観客」がどこまで耐えうる事が出来るか?
今はただ画面全体からオリヴェイラのシニカルな笑みを感じるだけです。