りょうた

5 five〜小津安二郎に捧げる〜のりょうたのレビュー・感想・評価

4.3
5本の風景の「長回し」のみの映画。「見る」、ただ「見る」ということ。侯孝賢がとあるシンポジウムで『珈琲時光』は小津に捧げるオマージュだけれど、技巧的なことを踏襲わけではなく、精神を借りたということを言っていたが、今作はキアロスタミが侯孝賢同様に自分なりの小津を形にした作品だろう。だから、小津の一般的なオマージュを期待すると裏切られる可能性がある。キアロスタミは晩年、「見ること」、ただ「見る」ことを強調していた。『クローズ・アップ』を観た人は印象に残っているであろう、坂からおこげ落ちるスプレー缶のシーン。あれは演出が加えられたものだった。では、今作はどうだろうか。波打ち際で流れる流木が大きいものと小さいものに分かれて、カメラは大きい方を追いかけず、小さい方にカメラを残した。すると遠くの方から大きい方が流れてきて、フレームに入ってくる。画面の右端でたむろする4人の老人はどうか。五匹、途中から四匹になる犬はどうか。画面を左右に横切るアヒルはどうか。どれも演出をされていないものの集まりだろうか。それともただカメラを回しただけだろうか。つまりは、「見ること」であると同時に、「見ること」を疑うことなのではないか。

当たり前のことだが、カメラを通して見る世界を今作はひたすら流す。カメラを通しているからこそ、犬のシーンでは絞りがどんどん開かれて白飛びしていく。水平線も消えていくほどに。

小津は観察眼が非常に優れている。人をじっくりと見る目があり、そこには愛があるのではないか。このことは頭に置いておいてもいいかもしれない。

最後のシーン、あれは湖面、川面に映る月だろうか。一本のライトではないだろうか。そして雷のシーン、突如浮かび上がる滴と、一瞬暗転した後に映る雨粒との距離は明らかに違う。最後のシーンは長回し風のシーンで編集が加わっている。そういうことはキアロスタミならば、尚更疑ってしまう。

この作品は1人1人が感じ、考えればいいと思う。ただ画面を見ること。そして何かに気付くこと。またはそこから感じること。それでいいと思う。スピードや合理さを求める慌しい世の中だからこそ、じっと見るという時間があってもいいのではないか。ただ見れないということは少し悲しいことだ。
りょうた

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