河

ヴァリエテの河のレビュー・感想・評価

ヴァリエテ(1925年製作の映画)
3.8
神に見放されたように幸福からずるずると落とされていくエミール・ヤニングスの役柄含めてムルナウの『最後の人』以降のドイツ映画という感覚で、映像的な快楽度が非常に高い。

タイトルの通り曲芸団、その中でも空中ブランコ乗りの夫婦を主人公とした映画。互いに空中ブランコの乗り手として周囲からも理想的で幸福だと言われるような夫婦像を築いていた2人の間に、新しい乗り手の男が現れ、その男を加えた3人で空中ブランコをすることになる。それによってその夫婦と男の間に三角関係が生まれるようになる。

夫は空中ブランコ乗りとして観客から送られる視線、夫婦としての周囲からの羨望の視線を得ていたが、妻の浮気、そしてそれを周囲が知っていることに気づくことによってその視線が一気に自身を刺すようなものへと変化する。妻の浮気、不在によって夫の纏っていたイメージが反転する。

夫は冒頭の安定した幸福で人間的な状態から空中ブランコで失敗を装ってその男を殺すという考えに憑かれるようになり、段々と不安定な状態へと陥っていく。その不安定さが空中ブランコに象徴される。空中ブランコのシーンは2回あるが、幸福だった1回目の安定感に対して、2回目は失敗の可能性が見えるような不安定で緊張感のあるものになっている。

そして、妻は浮気をしつつもまだ夫のものだったが、2回目の空中ブランコでは夫側ではなくその男の側にいて、その男と2人で空中ブランコから降りていく。それによって妻が完全にその男のものとなってしまったように感じられる。それによって、夫は妻を奪われ冒頭の幸福な姿と対照的な、完全に闇に落ちてしまったような姿となる。

その後の冒頭の人間的な姿とは対照的なエミール・ヤニングスの硬直、真顔、機械のような動き。床に倒れ込むことでフレームアウトする2人、しばらく無人の部屋を映した後、そこに振り上げられたナイフを持った手だけが象徴的に映り込むという、最後の殺人シークエンスが本当に良い。ブレッソンにも通じるようなここまで切り詰められた画面、語らないことによって語るショットは当時なかったんじゃないかと思う。

狂騒や曲芸師たちの規則的な動きとカメラの動きの連動、花火が噴き出す中のボートなど、サーカスが舞台、背景としての映像的な多幸感を担保している。その多幸感は冒頭の幸福な2人を象徴すると同時に、中盤では妻の浮気を疑う夫の姿と多幸感に包まれる妻が対比されることでその空中ブランコ的な二極の間を振れる不安定さを象徴するようになる。そして、最後夫は多幸感とは真逆の極へと移行する。

ムルナウ『最後の人』では幸福から全てを失い底へと落ちた主人公に対して、神としての製作者の手よって、観客の望むように物語が捻じ曲げられ幸福が訪れる。この映画は刑務所にいる夫の回想形式となっていて、その独白を聞く看守が観客の位置にいる。そして、その観客である看守が神の手によって救われることを夫に伝え、その夫のこれからの人生が開けていく形で終わる。そういう意味でも『最後の人』とかなり近い構造の映画となっている。

ムルナウの『サンライズ』でも多幸感を映像的に表すための舞台装置としてサーカスが置かれていたし、パウル・レニの『笑う男』でも同じような使われた方をしていたのと同時に、その動きや人の多さによってクライマックスの演出にも、その大衆の動きが登場人物を飲み込む運命を運んでくる波を象徴するようにも使われていた。当時のサーカスはサイレント映像と親和性の高いものだったのかもしれない。
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