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伊豆の踊子のodyssのレビュー・感想・評価

伊豆の踊子(1974年製作の映画)
3.5
【吉永・高橋版と比較して】

何度も映画化されている川端康成の有名な小説。
ここでは、11年前に吉永小百合と高橋英樹主演で映画化した際に監督を務めた西河克己がふたたびメガホンをとっているところがミソ。

吉永・高橋版では、60歳になっている大学教授(宇野重吉)が40年前の旧制高校生時代に伊豆に旅した体験を想起するという形になっていましたが、今回も語りが同じ宇野重吉を使っているところが面白い。ただし、今回は回想はあくまで語りでだけ表現され、映像としては出てきません。

もっとも、語りは時として重要な役割を果たします。例えば主役の一高生(三浦友和)が途中でベレー帽を買ってかぶり、一高の制帽をカバンにしまい込むシーンで、語り手は「それによって旧制高校生であることを隠し、一座の人たちとの差が表に出ないようにした」と説明します。原作でも語り手の一高生は途中でベレー帽を買い、一高の制帽はしまうのですが、この語りのような説明はしていません。この映画は戦後25年以上たち、旧制高校生がエリートだったという事実(私も下で述べていますが)自体が分かりにくくなっていることをはっきり意識して、説明的に作られているのです。

吉永・高橋による版については私はすでにこのサイトにレビューを書いているのでそちらを見ていただきたいのですが(↓)、同じ監督による今回の映画化では、時代の変化を見据えてか、戦前の旧制高校生と旅の一座の階級的な差異をはっきりと分からせるような表現がとられています。
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戦前、旧制高校生、とくに首都東京にある第一高校(現在の東大教養学部)の生徒はエリート中のエリートでした。それにたいして旅芸人の一座は、茶屋のばあさんにすら蔑まれるような存在。エリートと下層民がたまたま伊豆で一緒に旅をするという話、それが『伊豆の踊子』なのです。けっしてほんわかムードの清純な恋物語ではありません。また、原作で有名な、踊り子がまっ裸で駆けてくるシーンにしても、これを見た一高生は「まだ子供なんだ」と思い、ほっとする。これは原作が本格的な恋物語ではないからで、あくまで異なる階級の人間がほんの数日の出会いと別れを体験するという筋書きに合致しているシーンなのです。『伊豆の踊子』は異なる階級の成熟した男女同士がぶつかり合う本格的な悲恋物語ですらない。

しかし、映画は、特に本作のようにこれ以降ゴールデンコンビとされた山口百恵+三浦友和を主役に据えた作品ではそうはいきません。やはり原作より恋愛感情を表に出して作ることになる。ということは、その分、二人の別れがきついものになるわけです。

この映画のラストに注目すべきでしょう。お座敷で踊りを披露している踊り子(山口百恵)に、足取りのあやしい酔漢が抱きつこうとするシーンで幕切れとなる。これは、この場はともかくとして、踊り子が遠くない将来にたどる運命を示唆しているシーンなのです。

また、この映画には原作にない人物が追加されています。踊り子と年があまり違わない女の子。友達である彼女と伊豆で再会できると楽しみにしてきた踊り子は、彼女が病床にあることをやがて知ります。言うまでもなく、この友達の運命も踊り子の運命と重ね合わされているのです。

前作の吉永・高橋版では、40年後に大学教授となった主人公に対して、教え子の男子学生がガールフレンドのダンサーと結婚すると報告をするところで終わりになっていました。つまり、戦前ならエリートである一高生と下層民である踊り子が結ばれることはあり得なかったけれど、戦後の民主主義、或いは社会変動のもとでは、大学生の男の子とダンサーの女の子が結ばれても不自然ではないという暗示であり、時代の変遷による救いが表現されていたわけです。

しかし、この山口・三浦版ではそういう救いはありません。踊り子の(近い将来の)運命は上に書いたとおりですが、一高生は帰りの船の中で、自分の制帽と、踊り子から記念にもらった櫛を両手に握りしめて涙します。エリートたる一高生の制帽と、対極的な生き方を強いられるであろう踊り子の櫛。決して結ばれない社会の両極に生きる二人の象徴が、制帽と櫛だったのですね。

なお山口百恵と三浦友和はこの映画が初共演で、このあとゴールデンコンビとなるわけですけれど、このときは山口が15歳、三浦が22歳。そのためもあって少年少女という印象が強く、かえって新鮮な印象を高めています。特に山口は少し後になると独特の色香が出てきますが、このときは少女性が勝っていて、作品の雰囲気によくマッチしていると思いました。
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