サマセット7

ゴッドファーザーPART IIのサマセット7のレビュー・感想・評価

ゴッドファーザーPART II(1974年製作の映画)
4.9
ゴッドファーザーシリーズ第二作。
監督は「ゴッドファーザー」「地獄の黙示録」のフランシス・フォード・コッポラ。
主演は「狼たちの午後」「スカーフェイス」のアル・パチーノ。

[あらすじ]
今作は2つの時代の物語が交互に語られる。
一つは1901年から始まる、イタリア移民ヴィトー・コルレオーネ(ロバート・デニーロ)の物語。
両親と兄弟をマフィアに殺され、故郷イタリア・シチリア島のコルレオーネ村を追われたヴィトーは、アメリカに亡命する。
やがて地元のマフィアにみかじめ料を請求されたことをきっかけに、頭角を表し…。
もう一つは1958年から始まる、ヴィトーの三男マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の物語。
前作にてヴィトーの後を継ぎファミリーの新たなるドンとなったマイケルだったが、問題は山積。
ファミリー内部に軋轢を抱え、取引相手のハイマン・ロスも信用できない。
そんな中、マイケルと家族を襲撃される事件が起こるが…。

[情報]
前作ゴッドファーザーは、イタリアンマフィアの抗争と変化を格調高く描き、アカデミー賞作品賞、主演男優賞、脚色賞の三冠を獲得。
アメリカ映画の興収記録を塗り替える大ヒットとなった。
製作・配給のパラマウントピクチャーズは、直ちに続編製作を決めるも、コッポラ監督は続編の監督にはならないと断言。
最終的に、製作に関わる全決定権と無制限の予算を与えられ、監督を引き受けた。

今作は、映画史上最も高い評価を得た続編作品である。
アカデミー賞作品賞を、第1作に続き、続編作品が獲得した例は、今作以外に類例がない。

全面的に原作小説を脚色した前作と比べ、今作は、ヴィトーパートは原作小説を引用しているものの、マイケルパートはオリジナルである(原作者マリオ・プーゾとコッポラの共同執筆)。
前作の前日譚と後日談を同じ作品で描く、という複雑な構造を持つ。

この2つの時系列を交差させる脚本構造と合わせ、説明的な台詞がなく、日本人には人の顔が覚えにくく、さらに作中人物が表情一つ変えずに虚偽の情報を話したりするため、前作に輪をかけて難解な作品としても知られる。
3時間20分の長尺もあって、かなり取っ付き難い作品である。

にも関わらず、前作以上に監督コッポラがやりたいようにやった今作は、前作同様、批評家、一般層問わず、全映画の中でも最高クラスの評価を得ている。
前作主演のマーロン・ブランドこそ出演していないものの、アル・パチーノとロバート・デニーロが名を連ねるキャスティングは今見ると超絶豪華な布陣。
当然の如く演技は絶賛された。
音楽は前作のニーノ・ロータ作曲の名曲を編曲。
撮影も前作に続きゴードン・ウィリス。
20世紀初頭のリトルイタリーの情景は、全面的にセットで再現された。

アカデミー賞作品賞、監督賞、助演男優賞(デ・ニーロ)、脚色賞、作曲賞、美術賞を受賞。

今作は1300万ドルの予算で製作され、1億9000万ドル超の興収を上げた。
前作には及ばないものの、当時としては規格外のヒットとなった。

[見どころ]
イタリアンマフィアの年代記の世界に引き摺り込まれる!!
キャストの演技、音楽、美術、色彩、脚本、カメラアングルなどなど、全ての要素が織り成す、映画の完成形:パート2!!
2つの時代を交差する脚本により、前作よりも一層引き立つ、テーマ性の深さ。
難解、だが、「何だこれ、よく分からない!」こそが、映画の面白さの重要な一部ではないのか!???

[感想]
これはこれで、名作中の名作。

最初に観た時は、何も考えずに、マフィアの抗争に次ぐ抗争にただ押し流されたような感覚だった気がする。
どちらかと言うと、デ・ニーロ演じるヴィトーパートが印象に残っている。
屋根の上のデ・ニーロ!!!最高!
一方アル・パチーノのマイケルパートはひたすら陰惨な話、という程度の記憶だった。

久々の再鑑賞。
今回の感想は、2つの時代の対照がヤバい!!!だった。

まず、私は、前作を、ヴィトーとマイケルの世代交代を通じて、シチリア系移民というルーツと、それが世代を経てアメリカナイズドされ、変容していく様を描いた作品、と認識している。

その中で、ヴィトーは、宗教、文化、倫理などの面で、古き良き移民文化の象徴的存在であった。
他方で、マイケルは、アメリカで生まれ育った移民二世であり、教育を受けたアメリカ人でありながら、移民としてのルーツの呪縛を負った存在であった。
前作最後にマイケルは、ファミリーを継承することで自らのルーツを受容するが、既にその振る舞いは、アメリカ化されたものであり、ヴィトーのそれとは似ても似つかないものとなっていた。

今作でも、基本的な構造は同じである。
つまり、若き日のヴィトーが、古き良き移民文化を象徴し、ドンとなったマイケルが、アメリカ化され変容した現代マフィアを象徴する。

その結果、ヴィトーとマイケルのやることは、同じく暴力による問題解決と見えて、内実は180度異なる。

ヴィトーの振るう暴力は、ファミリーや同胞を守るために振るわれる。
報復行為にも、ある種の正当性がある。
その対象は常にファミリーの外側である。
その様は、いわば古き良き任侠ものの世界であり、とても飲み込みやすい。

他方、マイケルがドンとして直接間接に振るう暴力や脅迫はどうか。
目的は複雑化しており、主に裏切りに対する制裁か、利益を奪い合う敵の排除のために振るわれる。
報復行為には容赦はなく、その対象は時にファミリー内の者となる。
もはや、何のためにマイケルが粛正を行うのか、非常に分かりにくい。
こちらは、仁義なき戦いの殺伐とした世界だ。

結果、ヴィトーは信頼によりファミリーを結集させ、マイケルは、相互不信によってファミリーを崩壊させる。

この2人の対照に着目すると、今作の一つ一つの描写が、それぞれ意味を持ってくる。
コッポラが、ゴッドファーザーの続編を作るにあたり、なぜ、前日譚と後日談のミックスという脚本を書いたのか、も見えてくる。

意味を持つといえば、例えば、マイケルの妻ケイが、決定的な告白をするシーン。
「ゴッドファーザー」という慣習が、いかなる宗派に基づくものか考えると、このシーンが、決定的な破綻を描いたシーンであることが見えてくる。

今作は印象に残る名シーンのオンパレードだ。
自由の女神!
ヴィトーがターゲットを追って屋根を移動するシーン!!
大家!!
報復!!!
マイケルへの襲撃!!
黒衣の殺し屋!!
公聴会の顛末!!!
トム・ヘイゲンの静かな宣告!!
今回特に心に残ったのは、終盤のマイケルの兄フレッドとマイケルの抱擁のシーンだ。
マイケルの複雑な内心と行動は、今作のマイケルパートを総括しているように思われる。

ラストシーン。
人の孤独が、こんなに見事に映像に刻印されたことが、あっただろうか。

[テーマ考]
今作は、アメリカという国を描いた作品である。

移民の倫理を備えたヴィトーと対照的に描かれる今作のマイケルは、アメリカそのものだ。

誰もが憧れ移り住む、自由の国、アメリカ。

しかし、その内実は、共同体というセイフティネットを失い、剥き出しの個人が利益を求めて限られたパイを奪い合う、修羅の国ではないのか。

終盤の在りし日の家族集結のシーン。
マイケルのセリフは、非常に象徴的だ。
彼は、家族の期待よりも、自由を求めた。
その結果、彼が得られた物は何だったのか。

修羅の国は、言い過ぎだろうか?
しかし、「自由」は何をもたらした?
未だに止むことなき銃乱射事件。
未だに存在しない医療保障。
拡大するばかりの貧富の格差。
現代アメリカの闇の一端を、今作は言い当てていたのではあるまいか。

今作で得られる教訓は何か。
マイケルは、ヴィトーの言葉を引用する。

「相手の立場に立って物を考えろ。」

これに尽きるような気がする。
マイケルは、戦略論として理解していたようだが。
要するに、思いやりを持て。特に家族に対しては。ということではないのか。

[まとめ]
名作の続編にして、前作に勝るとも劣らない、マフィア映画の歴史的傑作にして名作中の名作。

それにしても、今作のアル・パチーノのジトリと見つめる暗い目!
今作の陰惨さの9割はこの目のせいだ!!と言いたくなる。