otomisan

ハワーズ・エンドのotomisanのレビュー・感想・評価

ハワーズ・エンド(1992年製作の映画)
4.1
 原作者フォスターとは、この物語では高等遊民的シュレーゲル家に属する格好だ。すると、落ち着き払った様子のマーガレットも矯激なヘレンもフォスターの分身のようなものだろうか。
 現世のフォスターひとりでは叶わぬ事も女二人なら叶えられる?そんな思考実験の経過と捉えるのが正しいかどうかは分からないが、身分や立場の垣根に隔てられた三家族が奇しくも一族になってゆく道のりはフォスター苦心の力技と思えてならない。しかし、それがどんな不幸を呼び、フォスターの願うところはどんな形で実るのだろう。

 身分と立場というが、この三家族はどういうものか。
 仲立ちとなるシュレーゲル家が長女マーガレットひとりでも年収600ポンド、今なら1000万円近くにもなろうかという額らしい。ほかに次女ヘレン、弟に叔母の計4人がそれぞれ同額を利息から受け取るなら運用資金は数十億円にもなろうか。こんな家庭にあってヘレンの手癖の悪さはどこから来たものやら。
 同じ金持ちでもウィルコックス家はS家が投資する先に相当する。その男たちは学問する暇があるなら働けと説く。日の沈まない帝国なのだから、文字通り24時間働けるだろう。ヘレンが勇み足発表をした婚約相手、ポールはナイジェリアに赴くというが、つまり石油でさらに一儲けという事だ。帝国はこのとき自国産の石炭から輸入に頼ろうともエネルギーシフトを図り急追するドイツに産業でまた軍備でも掣肘を食わさねばならない覚悟なのだ。
 このように国家命題的に伸長するビジネスのリスクを緩衝させる仕組みとして保険事業も活況を呈する。そこで事務員をするのがバスト家のレナードである。ヘレンに傘を奪われてもそれを取り戻すのに雨の中、彼女の住まいの扉も自身では開けられない。身分の差とはそうしたものかと気付かれるだろうか。そのうえ、勤め先の経営難をヘレンたち、またW家のヘンリーから吹き込まれ転職するもたちまちリストラに遭い失業してしまう。レナードが兄弟に無心する額は10ポンド、たかだか15万円ほどだろう。そんな苦難のレナードをフォスターはヘレンからの詫びの小切手5000ポンドを差し戻す者と描いている。

 豊か過ぎて金銭に無頓着でいられるS家、豊かさを信じ切れないかのように利に敏いのがW家なら、レナードは立場に似合わぬ廉直さを示している。このことが恐らくあとあとレナードの死とそれを招いたW家の長男チャールズの致死罪を運命付ける背景となるだろう。
 甘やかせば意地汚くたかって来ると決めつけた、かの貧乏人B家のレナードが誰よりも潔く、反対に勤勉に徹して孤塁を堅持しているつもりのW家こそ狭い了見で人を見下し、言葉に貸す耳も待たず、死地に人を追いやってしまうほど弁えの無い、つまりこれは社会に資する人間たちであるのか?家長ヘンリー以下に突き付けられたのはこうした問いである。

 この社会に資するとは、国家の戦略物資調達を担うだの納税義務に応じるの段ではない。世間の望ましくないところをどうすれば治せるだろうと働きかける事であろう。または望ましくない当事者や出来事とは通説の通りなのか、さらにはその逆の事をも問う事であろう。
 固陋に陥ることなくそれらに答えるのはひとりでは大抵叶わないから、誰かに説いて、人の話にも耳を傾ける事になる。儲け話でできて何故余所でできない事があろうか。だが、あのときは人一人を死なせ、縄付き一人を出して、結果垣根越しだった三家族は一族になる事ができるのだ。
 その現場がハワーズ・エンド、語源をたどれば「『勇者』の斃れる地」ぐらいの事になるだろうか。帝国の牽引者であるヘンリーもエピローグでは、そこを遺言の場とする。どこか皆強張った様子が解けない。それはそうだろう。フォスターに強いられて係る仕儀に至って、W家の先妻ルースの生家、もともとルースからマーガレットに譲られる筈のこの屋敷があろうことか農民出の労働者の息子に譲られるのだという。その経過にあって、財力とビジネスで声望を勝ち得たW家は裁判を通じて大変な社会性疾患を抱えていたことが知れてしまったのだから。

 だが、もちろんこれは思考実験に過ぎない。無理な条件を幾つも付けてやっと導いた答えである。しかし、この物語の中で示された無思慮、無分別を躱す手立てとしての、先入見に囚われず際どい要件でも話を聞き意見を述べする事、まさしく現世でフォスターが交わっていたブルームズベリー・グループの意見交換と知見を広める場としての在り方に他ならないだろう。
 しかし、そんな寛容さは年600ポンドなければ養われないのか、夢見勝ちな労働者にしか宿らないのか、殺人の末の実業家でなければ届かない事なのか、そして、汚名に壊されたW家の家族は結果、この一族から早速離散して、やがて異なる思考と言葉に徹してゆく事になるのだろうか。フォスターの思考実験はこのように何かを起せばきっと反発、副作用の深甚な事も覚悟しなければならないとも警告しているのだ。

 この新たな解体のときにあらためて思い返すべきなのは、ヘンリーの、制度に則った遺言の誠実な履行が強いられる一方で生じる反発がやがては必至であろう事に対して、かつて先妻ルースの遺言を手続き上不成立なのをいい事に履行しなかった件を皆が了解し不和を収めてしまった事である。
 手続きの不足を衝いてルースの心情を無にした事は顧みられることもないが、第三者である観衆の記憶に留まる。そして、このルースが過日、参政権こそ望まないが女たちが挙って声を挙げれば戦争も起こせなくなる、と言った件も思い起こされるだろう。
 そのときのサロンの面々がルースの言に言葉を失うのは彼らが制度の整備によって革新を形にしようと躍起になるのを尻目の素朴すぎるルースの言葉に鼻白む思いを覚えたという事だろう。
 しかし、皆が参政する課題は数年おきの選挙のときにだけ芽を出すだろうか。突然召集される戦時内閣にどのような認否を示せるだろう。そんなときにルースの述べた女たちが挙ってという事が思い返されるだろう。それはいつから始めれば間に合うのか。これは1909年から11年の物語、戻り道の無い惨禍はもう間近だ。
otomisan

otomisan