河

王女メディアの河のレビュー・感想・評価

王女メディア(1969年製作の映画)
3.6
ケンタウロスに育てられた王の血統の男がいて、その男が地球の裏側にある原始的で魔術的、神の宿ったような社会でその王女メディアと出会う。そして、メディアの住む社会とは真逆の、魔術の存在しない人間中心的なある種現代のような社会へとメディアと共に移り住む。
メディアの住んでいた社会のように、自然や事物に神の存在がみなぎっているような神話的な社会があり、それが後半の舞台になるような神の存在しない人間的な社会へと移行していくことがケンタウロスによって語られる。また、男はケンタウロスが外部者と住む人間的な社会、その二つの中間のような社会で育つ。そして侵略や旅を通して段々と人間の社会へと適合していく。それによってケンタウロスの言葉を解すことができなくなり、通訳として人間状態の新しいケンタウロスが必要となる。
そして男はメディアの持つ神話的な社会の力、魔術的な力を奪い利用しつつも、最終的にはそれを拒絶し人間的な社会を選ぶようになる。その結果、神話的な社会によって復讐を受ける。メディアのいた神話的な社会は魔術の源のような毛皮を失っていて、その復讐はメディアの自滅的な破壊であるため、メディアと共に神話的な社会が滅びる。
メディアが中心となっていることもあり、近代社会によって利用、略奪された魔術的、神話的な神の存在する社会の断末魔のような映画で、魔術や神が人を恨みながら死んでいく映画であるように感じる。ラストの炎に包まれたメディアの「八方塞がりだ」みたいな叫びが『テオレマ』のラストの父の虚無の絶叫の反復になってると共にこの映画の全てのような感覚があった。
結果が選択によるものであると同時に予め決定されていたものでもあり、その予言された運命から逃れられないっていうこの監督に通底するテーマはこの映画にもある。
語り方がかなり特殊で、スターウォーズみたいなこれまでの背景の語りと作品自体のテーマ設定を冒頭で一気にケンタウロスに語らせる形になっていたり、そもそもケンタウロス自体の説明もなく、さらにメディアが将来を現実のように見る場面で時系列が飛んだりする。『テオレマ』と同じくかなり即興的に撮っているような感覚があった。また、どちらも終わる瞬間が最高に良く、八方塞がりな叫びを映像にした映画のような感覚がある。どちらもその断末魔のような感覚を即興的に捉えていこうとしてる映画なのかもしれない。そういう点では、主題は違うけど、方法論的にはロッセリーニと共通するように思う。個人的にロッセリーニの映画は見てる間は割と退屈だけど、見終わった後に残った断片的なイメージが段々と脳内で統合されることで形作られる映画全体の印象、感触みたいなものがめちゃくちゃに良いっていう感覚があり、どちらも同じ感覚だった。正直どちらも好きではなかったけど、数日後一気に好きな映画になってる気もする。
あと、荒野に人間の身体の一部が落ちていることで一気にシュルレアリスム的で暴力的な画面に飛躍するのが好きだった。

いくつか見ていないものはあるけど、この監督は信仰があるかないかの曖昧な人々、それに対応した神や大きな存在によって定められた運命とそこから逃れられない意志、その二つの境界線曖昧さについての映画をずっと撮っているような感覚があり、当時のイタリア社会のドキュメンタリーから『奇跡の丘』を契機に人間の内的なものを寓話的、神話的にドキュメントするように転換していく。意思ではどうにもならないほど深い運命や人間の裏側の闇に出会うっていう軸が『アポロンの地獄』で極まって、『テオレマ』とこの映画ではその断末魔のようなものを描くようになるって流れのように思った。どの映画も見た人への問いかけのようになっていて、そういう意味ではスキャンダラスなのかもしれないけど、それが愉快犯的なものではなく誠実さや切実さに基づいたものであるように感じる。
河