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燃える平原児のニューランドのレビュー・感想・評価

燃える平原児(1960年製作の映画)
3.8
✔️🔸『燃える平原児』(3.8) 及び🔸『殺し屋ネルソン』(4.1)▶️▶️

 今月のラスト1週間は映画を観ない予定だったが、不意に空きが出来たので、気楽に楽しめて、そう高くない料金の再見二本連続会場にする。が、来てみてビックリ、1本当たり1400円。パブリックドメイン絡みなんだろうが、世紀の大作でもないのにと、詐欺に会った気分。しかし、往復2時間東京に出てきただけというのもと、不機嫌に見始める。
 『~平原児』は、子供のころ、テレビの洋画劇場で時折やってた。監督・主演者共に不名誉な作とされてたが、それよりは硬質になかなかしっかりした真面目系の印象は残ってた。BS時代になり全長版をやるようになったが、『大いなる西部』や『真昼の決闘』よりは面白いし優れてるが、再見する程の作品でもないと無視してきた。今回のは、別にスコセッシの新作に掛けたわけでもなく、‘ストレンジャー’の昨年のシーゲル特集の一本に選抜されたもの。大した作でもないと当然そこでも見なかった。
 今回、1年以上遅れて見て、スコープサイズにまずビックリ。そして、様式・内容共に、思ってた以上に正調正統派でびっくり。あまりユーモアや色気もない。主張も大胆には至らず、当時の平均をあまり逸脱しない。デフォルメ、スピーディ、立体動感も確かに織り込まれてるが、ベースは不動の堅実さと密度変わらず無駄なし。(斜め)どんでんの被写体動きのパン・移動絡めてのの押えや、近接め対応切返しは、押し付けを排し手応えと滑らさあり、射撃や格闘中のカット切替えの粘着と摘まむ弾力の速度、取分け単なる移動でなくクレーンで高め不安定に上げての並び物への不可思議魅惑移動、も締めと格の確かめの屋外。屋内は、各人の寄りをフワフワと追うパンらと全体を押える退きのほぼ固定カットの割り込み、窓辺斜め動きのフォローやテーブルの一堂への前後移動、の中心への求心性。あらゆる種類の映画を含めて、気取らぬ地に足のついた古典的タッチの粋以上が実現されている。
 本来の居住地を狭められてく流れも、まだ大きな勢力を持ち、襲いも威嚇を越えて、人命を纏めて奪ってく、新酋長の激しい性格からも、先住民部族が押し寄せてる時代。恐れながらも、町を纏めて、対抗してく白人入植者たち。妻を失い幼い子供とこの地を訪れ、先住民の前酋長の血をひく娘と恋におち、二番目の子も設けて、20年、立場的に曖昧も、急襲からは逃れてきた男。しかし、今度の緊張を解くため独断で向かった妻が帰りに、襲われて辛うじて生き残ってた白人に撃たれ、亡くなり、男も先住民に殺される。二人の息子は強く結ばれてるが、白人の血だけの兄は何より、全ての人間を融和を重んじてく。肌の色から、母と共に疑われ蔑まされ、逆に先住民からは同志扱いで誘われてきた、しかし、血の「誇り」よりは何より家族の「絆」を大丈夫にしてきた混血の弟は、母が殺され、先住民の戦士に加わり、先住民に囲まれた父を救うに向かい叶わず自分も傷を負った兄を更に助けんと見つけて、仲間の戦士らと闘う羽目に。母と同じく頭上に「輝く星」を認め、兄と別れ死地へ向かう弟。
 古典的悲劇名作のように閉ざされた作で、もっとくだけた所も、娯楽派としては観たいとも思う。しかし、得難い完成されたタッチで、『~マディガン』辺りでより生活側に密着した完成をみるのだろう。
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 その点『~ネルソン』は、小心で目立たない主人公に比べ、出所を待ってた情婦、利用とお払い箱の割きり細工のボス、思わぬ大物下に、その次席争い、付いてきた医師、FBIのしつこさやその混乱潜入者、らといった脇固めが、自信やその弄びの強烈鮮やかキャラの方がそれだけで面白いアンサンブルを持っているが、まだるっこしい事柄とそれに気をもむ自分を追い出してくうちに、歪んだ自分がのさばり突発暴力の歯止めがきかなくなる、その弱さ故の怖さで、主役足るリアリティ・存在感を持ってくる。禁酒法も解かれ、組合運動のスト破りにギャングも手を染め始めた時代背景の、後退感もフィット。
 車中スクリーンプロセスの堂々使用、車の疾走や撃ち合いなどの速度のコマ落としめ圧縮、主観め移動も、思いっきりCUの切返しの少しはあるべき空間と時間の隙間なし、男女の再会合流移動の拡げ流れる別室への(また、からの)カメラワーク勝手流と・近接場所での繋がる一連動きや一室に閉じ込め者らを残しての罵倒対応らのカット割の力の・併存、思う間の始末片付け呆気と・始末出来る子供らを眺め侭の退きめ長め視界カットも(ラストで逆を真意として情婦に撃たせる布石…齟齬が決定的に拡がり促されても決して一緒を離さない相手の性格も読み)・また共にある、人間関係も思わぬ緩く受け入れての惰性感と・裏切りか引き締めか思わぬ行動の共存。それら、かなりタイトを外したフリーな柔軟タッチを超えてるようで、印象は、強く厳しくそれらの表現も、直截な迷い無しに手にした方法に映る。その基調を全編踏まえ、フリーさもぐらつかず、筆致は無駄や風流はなく、虚無さえもそこで泳がない。
 その、タッチも簡潔でかつ自己主張の強い個性を奇妙に押し出してる感は、その数年前からYOUTUBEで観れたものの方が、画質のせいか、小さい画面がフィットしたのか、強く感じられたのだが、それでも、確かにシーゲル5本の指に折られる傑作には違いない。繰返すが、スクリーンプロセス堂々、それとも絡む車らの早回し狂気、ショット内か跨ぐ二空間の侵食感、CU切返し対応や裏切り線引きない嵌まりが一般タッチの強い息遣い・息切れの、紛い物無さにマッチしてる。情婦や係わるキャラらの異様さに平気で足突っ込みに対し、あまりに中途半端に亘り歩く主人公の、弱さを抱えて思考停止からの大胆踏み出し続き加速は、建前の、FBI賛美映画などでない、本来の映画のあるべき、形をより強めてる。古典らしくない古典となり得てる作。
 安く軽く時間潰しに来たので、観客の多さや真摯さに驚き(拍手もあったか)、映画そのものより、権威的文筆家の方に決定付けれてるなと、気持ちが幾分か萎えた。軽く観ての快作の筈なのに。
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