むぅ

灰の記憶のむぅのレビュー・感想・評価

灰の記憶(2001年製作の映画)
3.7
"鋼"ではないけれど"豆腐"でもない。

自己分析による、私のメンタルの強度。年々強度を増している事は確か。強くしなやかにありたいが、単に図太くなってるような気もする。
しんどいな、と思いながらも大抵の映画は目を逸らさず観ている、と思う。そして、せっかく映画が好きなのだから、定期的に観ようと意識しているのがホロコーストについての作品。

[ゾンダーコマンド]
絶滅収容所で殺害されたユダヤ人犠牲者の遺体処理を任務とされた、ユダヤ人部隊。
『サウルの息子』で初めて知った存在だった。その事実を飲み込むことで精一杯で、レビューは書けなかった。
先日観た『黄色い星の子供たち』で、美しい景色を眺めながらヒトラーが何気なく「灰は語らない」と言った。殺害し燃やしてしまえ、というその言葉に寒気とも違う震えがした。
語れなくても、その灰に記憶はある。そんな風に描かれているのだろうかと思い、名前だけ知っていた今作『灰の記憶』を観ようと思った。
ちなみに、このコロナ禍でのニュースでユダヤ教は戒律で火葬が禁じられている事を知り、有毒ガスで殺害し焼却炉で灰にするその行為が幾重にもおぞましく、魂までも何度も何度も殺す行為だったのだと今更ながら思う。『サウルの息子』を観ている時にはそこまで考えが及ばなかった。
ゾンダーコマンドに関する資料を読んでいて、焼却後の灰は1人の大人で640gという記述を見つけ、指先まで冷たくなった。


ゾンダーコマンドになる報酬、それは4ヶ月の処刑延期。
「どうせ死ぬのだから」
彼らはその前に焼却炉の破壊を企てる。
そんなある日、ガス室で少女が奇跡的に生き残っているのを見つけて...。

実際の事件がベースになっている。ゲットーや収容所での反乱を描いた作品はこれまで『ヒトラーと戦った22日間』しか観たことがない。『ヒトラーの贋札』も多少はその要素があるが。
ギリシャ語で"焼かれたいけにえ"を語源とするホロコーストで亡くなったユダヤ人は600万人とされる。
嫌な表現になるが、その600万人を"分母"とするならば、私が知らないだけかもしれないが反乱を描いた作品はとても少ないように思う。抵抗ではなく、反乱。
それほどまでに、魂を削がれるような加害行為だったのだとも思うし、知られていないだけで握り潰された数々の反乱もあったのだとも思う。

ゾンダーコマンドの生存者 シュロモ・ヴェネツィアさんが「1、2週間すると、結局慣れてしまいました。すべてに慣れました。むかつくような悪臭にも慣れましたね。ある瞬間を過ぎると、何も感じなくなりました。回転する車輪に組み込まれてしまった。でも何一つ理解していない。だって何も考えていないんですから」と語っていた。
私はその言葉でアイヒマンを思い出してしまった。
ゲシュタポのユダヤ人移送局長官でアウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わったとされるアドルフ・アイヒマン。
イスラエルでの裁判を描いた『スペシャリスト 自覚なき殺戮者』や『アイヒマンショー/歴史を写した男たち』で、彼は「私の罪は従順だったこと。命令に従う責任を果たしただけ。歯車の一つに過ぎない」といった発言をしている。

"思考不可能な状況に追い込まれること"と"思考しないこと"には大きな隔たりがある。
「歯車だった」という共通する彼らの発言は同じではない。
けれども、"脱人間化の極限"へ堕ちていくための歯車。
急斜面を下る加速する"歯車"を止め、そこから登っていくために必要な数々のものの中に"思考"があるのだと思う。

『灰の記憶』で、アウシュヴィッツに到着し、そのままガス室に送られるためのユダヤ人の長蛇の列、その横で明るい音楽を奏でる縞模様の演奏者たち、その背後にある煙突から立ち昇る黒い煙の1枚の絵のようなカットがあった。
静かに、でも、急速に堕ちていく。忘れられない映像だった。

「アウシュヴィッツはどうしてドイツじゃなくてポーランドにあるの?」
「アーリア人以外をドイツに入れたくなかったんじゃないかな」
「?」
歴史の授業でホロコーストに触れ、ふと疑問に思った事を父に聞いたらそう返ってきた。
その時は全くピンとこなかったが、今ならその言葉の持つ"嫌な強さ"がわかる。

強く、しなやかであるために。
"思考すること"は大切。
そう思う。
むぅ

むぅ