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メメントのatomaのレビュー・感想・評価

メメント(2000年製作の映画)
4.7
前向性健忘で、10分しか記憶を保持できない男・レナードが、彼の妻を殺した男に復讐するという使命に憑かれ、街を彷徨いながら真相を追いかける。
目をつぶっている間も世界は存在するとして、どうやってそれを確かめるのかー。クリストファー・ノーランが彼の代名詞ともなった時系列の入れ替えを駆使して描く、記憶すること、想起すること、記録すること、参照すること、そして何より、何かを追い求めて生きることそれ自体をめぐる、普遍的な寓話。

最初に見たのはテレビ画面だったが、今回、リバイバル上映のおかげでサロンシネマのスクリーンで鑑賞できた。再見でネタは割れてるし、時系列の入れ替えも分かってしまえば非常に素直なので、観ていて混乱することはなかった。

素直と言ったが実際、本作の時系列シャッフルについてはネット上にたくさん明確な解説がある。大雑把に図式化すれば、実際に起こった順番を1→20として、モノクロパートが1→10、カラーパートが11→20で(実際にはどちらのパートもその倍以上に分かれているようだが)、描写の順番はモノクロパートが順行で、カラーパートは「本返し縫い」風の逆行で、20→1→19→2→18→3→17→...といった具合に語られる。
確かに複雑ではあるが、二つの時系列で画面の色を分けているあたり(最新作『オッペンハイマー』もこれ)最低限のサービス精神はある。それ以上に、この叙述の断片化は観客にレナードの「障害condition」を主観的に理解させるうってつけの方法であり、形式と内容のこの幸福な一致が『メメント』をスペシャルな一本にしている。

逆行と順行、二つの時系列がぶつかる映画のラスト(時系列順ではちょうど真ん中)、レナードにある真相が暴露され、それに直面したレナードは、ある非常に皮肉な決断を下す。
肝心の「テディ」の言葉が二転三転していて完全な信用に足るのかが曖昧ではあるが、真相はおおよそ三つ。レイプ事件の時、妻は実際には死んでいなかったこと。そして妻の実際の死は、モノクロパートで語られる「サミーの物語」の登場人物をレナードに写し替えたバージョンとして生じたこと。レイプ事件に関与したつまらないチンピラは、すでにレナードの手によって殺されていること。

レナードはショックを受ける。
レナードはテディの言葉を信じない。というより信じない振りをしようとする。もし単に信じないだけであれば、あのような行動をとる必要はなく、単に目の前の「嘘つき」を殺せばよい(結果的にはそうするのだが)。代わりにレナードがとったのは、受け入れがたい過去の自分の行業を積極的に忘却し(写真を焼き捨てさえする)、新しい「事実 "FACT"」によってそれを糊塗する、という選択だ。
つまりレナードは、実際にはテディの言葉を信じているのであり、それゆえ真実を語り得るテディは殺されねばならず、テディを殺しながら同時に自分の世界を守るために、まず、全ては忘却の淵に沈まなければならないのだ。

ラストシーン。盗んだ車を操りながら、彼は目をつぶり、目を開ける。そうすることで、目をつぶっている間にも世界が存在していることを証明したつもりになる。だが、どう考えてもこのテストには何の意味もない。ただの自己欺瞞だ。問題はもはや世界の側ではなく、閉じられた彼の目蓋の裏で起こるからだ(間に挟まれる妻との回想カットでは、レナードの胸に未知のタトゥー["I'VE DONE IT"]があり、明らかに虚構とわかる)。

真実を拒絶し、虚構のなかで生きることを選択し、やがてはその選択すら忘れてしまう。
記憶できず、想起できず、記録し、記録を解釈するしかないレナードのconditionからすれば、このラストのプロット・ツイストは鮮烈であると同時に、かなり必然的でもある。ある意味では誰もがこんな風に、自分が作り上げたことすら忘れてしまった虚構のなかで、どこにもいないターゲットを追いかけて生きているからだ。

まあ、そんな教訓的解釈を抜きにしても、映画はこの必然的なツイストにたどり着いた瞬間に終わるので、話を見失わずについて来た観客にとってはめちゃくちゃ気持ちいい。ボウイの"Something in the Air"も素晴らしい。(24/4/24)
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