巷ではフォロウィングで盛り上がってますが、ワタクシはやっとこれを観ました!
劇場で観られてラッキー✨
幾多のノーラン作品を観た後にこの作品を観ることで、点と点が繋がっていく感覚…
まさに「メメント的な体験」
おかげでノーランの時間のいじり方について、気づきがいくつかありましたよ
一番盛り上がるポイント=核(コア)に向かって、細切れにした要素が吸い込まれていく様は、まんまオッペンハイマーでの「核爆発イメージ」に倣った構成に繋がっているなー、と改めて思いました。
突飛な思いつきではありますが、ホントにそういう組み立て方なんじゃないだろうか
少なくとも何らかの「設計図」基づいて作られていて、その形は「それ」に近いと思います。
基本的には、その「コア」を「物語が生まれた瞬間」と一致させる事でエモさを増幅する、という発明なのだと思います。
で、その物語のスタート地点が「衝動による過ち=間違った選択」だというところが、良くも悪くも「ノーランらしさ」なんですよね
「執着からくる過ち」「踏み外し」
もっと俗に表現するなら
「闇堕ち」
簡単に言うと「やらかしちまった人」を描きたいんですねぇ
ダークナイトでジョーカーがバットマンを食ってしまったのもむべなるかな
オッペンハイマーもでっけえ事をやらかしちまった人
「間違い」の上に事象が積み重なっていき、「正しさ」を凌駕してゆく物語であることが、同時にある種の「軽さ」に繋がっているように思えます。
ともすれば、薄っぺらく感じたり、青臭く感じたり。
けれど、それも「所詮人間のやる事だもの」という事なのかもしれないです
「人生もドラマも、元々重いものじゃないんだぜ」というスタンス
それ故に、人間性や感情に説得力を持たせるのではなく、物語の構成で観客を説き伏せる、という試みなのかもしれないな、なんて思えたりもします。
それが、夫婦、家族、親子という普遍的なものを扱いながらも、ふと「実は全部どうでも良いのでは?」と感じさせてしまう異質さの原因ではないかな、と
ノーラン作品に欠けているもの(あるいは積極的に「描かないこと」)が、はっきりと浮かび上がっているようで興味深かったです
あとは…
エンドロールのデビッド・ボウイで「もう既にか!」という驚きと納得
プレステージでは出演してもらい、オッペンハイマーではキリアンの演技プランの柱とし…
ここまでデビッド・ボウイにこだわって形にしていくという情熱を見るにつけ感じるのは、彼は「人間を超越した存在を描きたい」もしくは「自分自身がそうである」と思ってるか、ですね
いや、思ってそう(笑)
まあ、そういう意味でも天才肌なんでしょうね!
やーれんノーランノーラン(略)
※時間と構成についての追記)
コアを折り返し地点として未来と過去の点を交互に行き来するように見えるものが、渦巻き状の運動の断面図だったら?
と想像すると、そちらのイメージの方が近い気がします。
そうすると、奥行きや別断面の切り取りという手もあるわけで…ノーラン、まだまだこの先も複雑かつ、あっと驚くような事をしてくれるかもしれないなぁー
ヤーレンノーラン!ハイハイ!