しんご

天国と地獄のしんごのレビュー・感想・評価

天国と地獄(1963年製作の映画)
5.0
先日下北沢のバーに行ったとき隣のカウンターにイスラエルの方がいた。現地でメディアの仕事に従事する彼は私とほぼ同世代で、何よりも映画が好きなのが好印象だった。テーマは日本の映画監督へと移行し小津安二郎と共に当然黒澤明の名前も登場した。

「What's your favorite of his works(お気に入りの作品は?)」という私の問いに「『七人の侍』(53)と『夢』(90)だね。あれ最高!」と彼は答えた...意外にも彼は本稿で扱う「天国と地獄」(63)を観たことがなかった。「それは面白いの?」と聞く彼に私は「観ないと後悔するよ」とほろ酔いのニヤリ顔で返した。あれから彼は本作を観てくれただろうか。

戦後20年足らずでこんなぶっといヒューマニズムに溢れた娯楽が日本で製作されたのは驚異ともいうべき偉業だと思う。誘拐をテーマにした娯楽でありながらそこに関与する人物たちの心情の機微が繊細かつダイナミックに描かれているからストーリーが物凄い立体的だし肉薄してくる様な臨場感がある。

「良質な靴を作る」というカスタマー目線第一な信念に基づき会社の支配権を獲得するための資金を準備していた権藤。そんな折、彼の運転手の息子が誘拐される。他人の子と切り捨てればそれまでだが、権藤は人道主義と良心の呵責で苦悩する。その懊悩を見抜かれ腹心に裏切られる、という誘拐に端を発するドラマ1つ取ってもキャラクターの行動や台詞が逐一納得出来るしとにかく展開に無駄がなさ過ぎる。

誘拐捜査を本格化する上で登場するのが仲代達矢演じる戸倉警部。「正義の権化」みたいに悪を徹底的に許さないキャラクターは黒澤映画のどの仲代さんとも異なっており、改めて圧巻のカメレオン俳優だなと感じさせる。

実際の「こだま」をチャーターして撮影された身代金受け渡しのシーンでは通常の国鉄のダイヤに割り込ませて撮影しているのも驚きで、この撮影における非常に危険な緊迫感が映像にも如実に表れている。余談だが、こだまの構造を国鉄に散々問い合わせ過ぎたあまり監督ならびにスタッフはテロリストと勘違いされたらしい笑。

最後にやはり敵役の山崎努演じる竹内の不気味な演技の妙たるや。「不快指数100」と嘲笑混じりに権藤を揺るがし続けた竹内が最後で全ての感情を剥き出しにするシーンは本作のラストを飾るに相応しい。あの鉄金網はライトに照らされ続けたため握ると火膨れができる程の高温だったらしい。山崎努の役者魂の凄さを感じた。

ちなみに、黒澤明は日本における誘拐罪の法定刑の軽さに憤り本作を製作しているがこの予告編を見た小原保が戦後最大の誘拐事件といわれる「吉展ちゃん誘拐殺人事件」(63)を犯しているのは何とも皮肉である。もっとも、この映画とそれに触発された上記事件が契機となり1964年に身代金誘拐罪が新設。改めて映画が社会に与える影響の強さを痛感すると言わざるを得ない。
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