レインウォッチャー

スローターハウス5のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

スローターハウス5(1972年製作の映画)
3.0
言わずと知れた、カート・ヴォネガットJr.によるSF名著の映画化。
先に結論を書いておくと、原作を読む前にヴィジュアルのイメージを得るためのガイドには丁度良い…といった印象。言い方を変えれば、本来の魅力を引き出したり、あるいは違った見方を与えてくれるものではない、となる。

理由は幾つかあるけれど、一番は物語の要所が曖昧でよくわからない、という点だろうか。
原作のエピソードは概ね的確に拾ってくれているのだけれど、そのエピソード群の描き方がどれも等価で、淡々とのっぺりしたままラストに行き着いてしまう。

今作で力点を置くべきは、やはりドレスデン爆撃ではなかったろうか。主人公ビリー・ピルグリム(ヴォネガット自身も)がWWIIでの従軍中に捕虜として経験したこの事件が、彼の人生全体、即ち物語全体に濃い影を落としている。

ビリーはその地獄から辛くも生還し、戦後のあるタイミングで、突如として異星人にさらわれる。そこで、彼らは地球人とは異なる次元の層に住んでいるため、《時間》の認識方法がかけ離れていることを知る。
わたしたちにとっての《時間》は、過去→現在→未来へと直線的に「進んで」いくものだけれど、彼らにとっては全てが区別なくただ同時に「ある」のだ(※1)。この感覚をビリーも学び、地球に戻ってから回顧録に残そうとする。

つまり、ビリーにとっては幼少期も、戦時中も、そして死の瞬間でさえも、同時に・かつ無限に何度も体験できるものとなる。
自ずと、物語は幾度となく時系列を行き来しながら進んでいく。映画では、さらにその往来時に視覚的or聴覚的なアクションがシンクロする橋渡しが加えられ、より分かりやすく表現されている(ここは良かったポイント)。

このような感覚を得たことで、ビリーは「良いことだけ思い出せばいい」という前向きな諦めとでも言うべき境地に達する。異星人たちもまた、「自由意志なんてものを持っている生命は地球人だけだよ」みたいなことを言ったりするのだ。

この設定は、上述したドレスデン爆撃と深く結びついている。この連合国による大規模空襲は、非武装都市において未曾有の死者を出しながら、戦後暫くにわたって隠蔽されていた。
ビリーや異星人の至った諦観は、この不正に対する皮肉であり、悠久の尺から見れば甚だちっぽけな枠の中で争い合う人間への批判でもあると思う。

劇中では、ベトナム戦争の帰還兵となる息子などを通して、過ちが繰り返される様を突いていく。過去に何も学ばない人間にとって、《時間》などどんな意味があろうか…そんなメッセージを受け取ることができる。(※2)

映画ではやはりこのあたりの表現が薄味で、さらっと流れていってしまう。あるいはこのフラットな感覚こそが、飄々とした原作のムードに適っている、という判断だったのかもしれないけれど。
今作のG・R・ヒル監督について、同じく小説原作を映画にした『ガープの世界』のときにも感じた印象として、良くも悪くも「職人的」だなということがある。複雑な原作でも器用にまとめて落第は回避するが、冒険もしない…そんな感じだ。

最後にもう一点、原作で何度も登場するキーフレーズ「そういうものだ。(So it goes.)」がまるっとカットされているのも寂しかった。
小説では、メインから端役まで登場人物が辿る将来の死の状況がさらっと説明されたのち、毎回この文句で締め括られる。ビリーのもつ無常感が凝縮されている言葉だ。

もしやこの世界観は、戦争やその他人生の悲劇によって受けた心的な外傷がもたらした妄想、死の直前に見た走馬灯のようなものではないか?
今作はそんな《揺らぎ》とも共にある物語で、わたしたちの思考に様々なIFを提供してくれる。

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※1:この設定は、大傑作『メッセージ』(原作はテッド・チャン『あなたの人生の物語』)にごく近い。同作は、SF史において今作のバトンを確かに受け継いでいて、諦観とは異なる新たな解釈を試みていることがわかる。

※2:直線的な時間感覚は、資本主義的(もちろん連合国側)な思想に近いともいえるだろう。絶え間ない進歩と競争の先に幸福が待つ、という発想。今作やヴォネガットが共産主義的である、と言うつもりはないけれど、その無責任な扇動にアラートを発しているのは確かだと思う。