ずどこんちょ

リトル・マーメイドのずどこんちょのレビュー・感想・評価

リトル・マーメイド(1989年製作の映画)
3.6
声を代償に愛を求めた人魚の物語。アンデルセンの童話を基に作られています。

実写映画が公開中のようですが、実はあまりアニメ版の方は自分の記憶に留められていません。子供の頃に見て以来、しっかり見てなかったので本編ノーカットで地上波放送してくれたことに感謝です。
そして、今さらまだこんなことを言うのは懐古主義みたいで嫌なのですが、やっぱり手描きアニメ時代のディズニー作品は不思議と温かい気持ちになれる安心感があります。今のディズニーアニメも十分好きなのですが、たまに見たくなるのが懐かしいこの時代のディズニー作品です。
もはやそれは名画のような芸術品です。

ストーリーは言わずもがな、かと。
陸の王子様に恋をしてしまった人魚のアリエル。ところが人魚界では、人間と触れ合うことは禁断の行為でした。父親で海の王トリトンも娘の恋心を全否定するのです。
やがてアリエルは自身も人間になって陸に上がることを夢みます。その心の隙間につけ込んだのが、ヴィランズのアースラです。アースラはアリエルに足を与える代わりに声を奪います。そして、3日間の間に真実の愛に基づくキスをもらわなければ魔法は解けてしまうというのです。アースラの思惑は、アリエルを人質にしてトリトンを地に落とすことでした。
恋に盲目となっていた純粋な娘アリエルはそんな危険な契約を交わしてしまうのです。

作中ではディズニー史上に残る名曲がいくつか披露されます。昔から好きだった愉快なテンポの『アンダー・ザ・シー』も良いのですが、今の自分には人間の世界への憧れの気持ちを歌った『パート・オブ・ユア・ワールド』の方が響きました。こういうのも見る時の年齢やコンディションで変わるものなのだと思います。
それに、やがて声を奪われるアリエルがその前にこの美しい楽曲を美しい歌声で披露していたからこそ、アースラに払った代償の大きさを感じられるのだと思います。
声を奪われてからは、どんなに感情が昂っても高らかに歌い上げることができないシーンが続くわけですから、ディズニーアニメとしては大損害です。

さて。改めて昔のディズニーアニメを見て感じたのは、現代のディズニー作品との違いです。
やはり王道かつ古典的。例えば、アリエルが恋する相手のエリックはいかにもイケメンで爽やかで、周囲にも信頼されている好青年です。しかも経済力豊かな王子様。それなのに愛犬とじゃれあって飾らないところが素敵じゃないですか。
ヒロインたちが恋に落ちる相手としては申し分のない身分なわけです。
逆に言えば、最近のディズニー作品ではあまり見ない相手役だと思います。多様性や女性の自立などを描いてきた最近の作品では、こういった王子様の枠に縛られるような王道的恋愛観は描かれることが少なくなってきました。
そもそもイケメンで爽やかで人当たりが良くて飾らない経済力のある王子様が理想の男性像などと掲げられたら、世にいる男性のほとんどが困ってしまうのではないでしょうか。理想はあくまで理想。そして、現代ではその理想すら曖昧な定義になってきたのだと感じます。
ただ、こうしてたまに昔のディズニー作品を見てみると、こういう王子様が物語に登場してヒロインが恋に落ちる構成も懐かしく感じますね。

それと、アリエルの過ごす人魚の世界と人間の世界の共存が描かれなかったことが心に引っ掛かりました。
いや、おそらくアリエルがこれからは人魚界と人間界の架け橋のような存在となって、お互いの存在を認め合う世の中にしていくのではないかと感じるのです。
しかし、アリエルが人間界に憧れることをあれほど反対し、アリエルが何より大切にしていた人間の物を集めたコレクションをことごとく破壊した父・トリトンは最終的に人間界との交流を認めたのでしょうか。

アリエルとエリック王子の結婚は認めました。でもそれは、アリエルの深い愛に心打たれたトリトンが魔法でアリエルを念願の人間にしてあげて、エリック王子の元へと娘を送り出したに過ぎないのです。
遠くから見守って、「娘に会えなくなる」と手を振って見送るに過ぎないのです。
やはりどうしてもトリトンは人魚界と人間界を交わらせようとは考えていません。おそらくその後も、人魚界の人魚たちには人間には近付くなと諭しているのではないでしょうか。

でもそれももっともな話です。
アリエルの結婚を阻んでいたのは、人間と人魚という種の違いという障壁でした。
それを乗り越えるためにアースラの甘い罠に引っ掛かり、大切な声すら奪われたのです。最終的にアリエルはトリトンの魔法で人間の足を貰えて一件落着しましたが、人間と人魚の共存だとか、種の垣根を崩すといった問題はそもそもアリエルには無関係な話です。それは海洋王であるトリトンが政治的に交渉や駆け引きをしながらやっていけば良い。
アリエルにとって大切なのは、ロミオとジュリエットの垣根よりも高い種の違いという壁を乗り越えて、恋を成就させること。
それに尽きるラブストーリーだったのです。

アンデルセンの童話から改編してハッピーエンドにしているとしても、この着地点が何だか物足りなさを感じさせました。それはきっと近年のあらゆるストーリーが、他者との違いを認めること、異文化や人種の違いを認めていくことを推しているからかもしれせん。
もしも本作が存在せず現代で初めてアンデルセンの「人魚姫」をアニメ化していたとしたら、人魚のアリエルと人間のエリックがありのままの自分でいられたままハッピーエンドの選択肢を選んでいたのではないでしょうか。結婚すらしなかったのかも。
きっと全然違うストーリーになっていたでしょう。

アリエルの友達の魚フランダー、宮廷音楽家の蟹セバスチャン、あらゆるところが見当違いなカモメのスカットルといった仲間たちも個性豊かで素敵でした。
今上映されている実写版ではフランダーもセバスチャンも、海洋生物そのものになっているみたいなのでこのキャラクターたちに関してはアニメの方が魅力が引き立っていると感じます。

特にセバスチャンの立ち回りは本作に必要不可欠です。
セバスチャンはトリトンにアリエルの監視役を命じられた可哀想な宮廷音楽家です。人間に憧れて「恋は盲目」状態になったアリエルの暴走を必死に止めようとするのですが、小さな身体でアリエルを阻止することはできません。蟹だから人魚にスピードで追いつくわけもなく。いつも彼女に振り回されているのに、決して見限ることはないのです。ただの音楽家ですよ?
なんて健気で責任感のある音楽家なのでしょう。アリエルとエリックが良い雰囲気になった時には、真実の愛によるキスを促すために音楽家として一肌脱ぐ気前の良さ。
本当はとても頼りになる存在なのです。
それなのに、エリックお抱えのコックには"食材"としてしか見られず、包丁を振り回して追いかけられる始末です。可哀想な、セバスチャン。
コックとセバスチャンの攻防は「トムとジェリー」の如くドタバタ劇で、絶対にストーリー上は不要なコメディシーンなのですが、セバスチャンが身体を張って笑わせてくれることで、愉快で楽しめるエンタメ作品になったのだと思います。

脇で存分に働き、不朽の名作として本作を人々の記憶に残すための一助を担ったセバスチャンのファンになりました。