カラン

イン・アメリカ/三つの小さな願いごとのカランのレビュー・感想・評価

4.5
小さな末っ子のフランキーを亡くした一家が、アイルランドから旅行用のビザでカナダへ。車でアメリカに入国し、ニューヨークまで。舞台役者の父は役もないが、仕事もない。教師だった母はアイスクリーム屋で働く。まだ小さな娘ちゃんが2人。

死んでしまった子が一家にのしかかり、これから死んでいく男の手助けで、新しい子がやって来る。ぼろのアパートで生命のこしかたゆくすえを長女がビデオカメラで撮影する。で、冷房のない一家は劇場に『E.T.』(1982)を観に行く。


☆奇跡はスクリーンに映っていたか?

末っ子のフランキーの死に両親は胸を痛めており、生きているのが苦しい。入国の際に子供を数え間違える。夭折したフランキーに取り憑かれて、彼ら自身がゴーストとして、娘たちに対して取り繕うように生きている。父も母も家族の結束をなんとか繋ごうとする。お姉ちゃんの「私」も3つの願いで家族を必死に持ちこたえさせる。

母は医師に新しい子は危険だと。しかし自分が死んでも産むと。母は《死》に勝たなければならない。父は助けられない。「私」の祈りではなく、死にゆく者のマテオが金を出してくれて助ける。これは奇跡という超越的な解決ではなく、現実的な解決である。

新しい生命が生まれて、マテオはE.T.のように家に帰っていくのか。大きなお月様にマテオが映っているのが見えただろうか?妹は奇跡が見えなかったのか。末っ子のフランキーが大きなお月様を越えていくのが見えただろうか?父は見えなかったのか、月ではなく長女を見ている。

奇跡は起こったのか?

マテオやフランキーは月夜を飛行したのか?

彼らの別れがあなたには見えたのか?

超越的なものの扱いはスティーブン・スピルバーグに非常によく似ている。超越はない。『E.T.』、壊れそうなほど賑やかな家族、ビデオカメラの「私」。ほとんど『フェイブルマンズ』(2022)のようである。しかしドラマの彫琢の仕方はまったく違う。結果的に、スピルバーグのような一元論的映画の弊害である余韻の短さを回避できていたかもしれない。



もう少し長尺にした方がよい。その際、上階の部屋からのロングショットが足りない。街でもっと遊んでほしかった。セットが多すぎたのではないだろうか。ニューヨークなのに冒頭に置かれたロケ以外はスタジオかアイルランドというのはちょっと厳しい。おそらく、お月様に何も映らないと思った人が多いだろう。そう思わせてしまうのは、セット撮影過多だからである。


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