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ストレンジャー・ザン・パラダイスのkatomのレビュー・感想・評価

4.8
旅というのはある者にとっては漂流すること。またある者にとっては己と向き合うこと。
ウィリーにとっての旅の意味合いが前半では前者だったのがラストにかけて後者へと変化していく。
そうしてウィリーとエディは別れる。

ウィリーはアメリカに流れてきたハンガリー人の象徴
エヴァはウィリーの過去の象徴
エディはアメリカ人の象徴
そんな風に感じた。

後から気づいたけど、ポスターの画がまさに三人の関係をとてもシンプルに表してる。
「アメリカ人」のエディに惹かれるハンガリー人のエヴァ。そんなエヴァを離れた所から眺めるウィリー。
立ってる場所はフロリダ沿岸。海の向こうにハンガリー。
いい画だなあ。

まず、エヴァがウィリーの過去の象徴的存在であることについて。

ウィリーはエヴァを追いかけて長年煙たがってたおばと会い、更には生まれ故郷であるハンガリーへと飛んでゆく。過去を捨て、自称「アメリカに住むアメリカ人」として放浪生活していたにも関わらず。

一方でエヴァはというと、ハンガリーからアメリカにきてウィリーの家に転がり込むうちにウィリーと行動が似てくる。転がり込んで数日後、早速エヴァに変化が。仕事(悪友エディとのイカサマとか盗みとかやくざな仕事)帰りのウィリーにテレビディナー(ウィリーはテレビを見ながらディナーすることをテレビディナーと呼んでいる。アメリカ人ぶってるのだ) をプレゼントする。はて一文無しのエヴァがどうやってテレビディナーをゲットしたかというと、店から盗んできたのだ。ウィリーそっくりの行動。

そんなこんなでウィリーを、アメリカを受け容れつつもウィリーに貰ったアメリカで流行っているドレスを「冴えないドレス」といって捨てちゃう。まだアメリカに対して嫌悪感を抱いているのであろう。ウィリーもハンガリーからアメリカに来たばかりのとき、アメリカに対してそんなふうに感じてたのではないだろうか。

たがそんなエヴァがラストではウィリーやエディがいつも被ってるのと似たようなハット帽を店から盗んできて身に纏うようになる。行動だけでなく容姿も似てくる。きっとエヴァは、ウィリーがかつてそうであったように、アメリカ人になりたいと思うようになってきたのだ。都会色に染まっていく田舎娘、ともいえましょう。「ここは退屈」だとか「逃げ出したい」だとかエヴァの台詞の端々からもアメリカ人になりたい想いを汲み取ることができる。



そして本作を通して考察すべきもう一つの要素はウィリーとエディの対比。それは本作の主題であろうハンガリー出身の自称アメリカ人とアメリカ育ちのアメリカ人の対比でもある。

本作を通して、二人の人生を表す図形が脳裏に浮かんだ。 

ウィリーの人生図は、出発点からくねくねと上に上がっていくんだけどある特異点で突然降下してそこからは直線的に出発点に戻っていくような閉曲線。

アメリカで自由奔放な放浪ライフを謳歌してるようにみえつつも、実はハンガリーに後ろ髪を引かれたまま生きてて、ふとしたことがきっかけで過去に一気に逆戻っちゃう、みたいな。

エディは決して同じ点は通らない曲線。

二人は似てるようでまるで違う。

クリーブランドに滞在し始めてから暫くたった二人の会話で、こういうやりとりがある。

エディ「ウィリー。いつまでいる気だ」
ウィリー「帰りたいのか?」
エディ「まあ、ぼちぼちな」
ウィリー「明日か明後日帰ろう」

このあと、エディが言う。
「新しい所へ来たのに何もかも同じに見える」
ウィリーは「よく言うよ」と返す。

ここのやりとりは二人の差が一番出てるとこじゃないかと思う。


パーマネント・バケーション冒頭部で、主人公のアリーがジャズに合わせて踊るシーンがある。
本作も前半で、エヴァがスクリーミング・ジェイ・ホーキンスの音楽に合わせて踊るところがある。
ジム・ジャームッシュ作品の中のこうした「踊る」という行為は、「人生とは独りで意味もなく踊り続けること」そう言っているような気がしてならない。彼の作品に蔓延るけだるさ・ あほらしさ・無意味さみたいなのは、監督からのそういうメッセージだろうか、なんて風に考えてみる。
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