荊冠

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qの荊冠のレビュー・感想・評価

1.5
【自分用メモ】
・何かすごい絵変わったな。

・破で見え始めた嫌な「アニメ臭さ」――リアルで自然な言動よりキャラクター性の演出を先行させた不自然な言動が本作でついに全開になり完全にシラける。エヴァは「アニメキャラクター」にリアリズムを持たせることが非常に巧みで、社会現象になるまで多くの人が感情移入し共感した理由のひとつはそこにあると評価していたが、そんなエヴァはもうない。ガンダムじゃないけどもエヴァもまた「アニメじゃな」かったんだよ~~~!
US作戦とかめちゃくちゃカッコいいシーンなのにヴンダーオペレーターのアニメ臭い、つまり「リアルにはあり得ないがアニメキャラクターとしてはもはや典型として当たり前のように描かれる言動」で全部台無し。例えばこのオペレーターは若くて利己的、このオペレーターは年配で貫録がある、といったキャラ設定を逐一分かりやすい台詞にしてしまったり、彼らが司令官のミサトに横柄に口出しをしたり、それをやったらそこらの量産深夜アニメと変わらんだろ、それをやらないのがエヴァだったのに。

・マリの薄っぺらさは相変わらずだが、カヲルの説明的すぎる口調も↑に拍車をかけている。腐女子意識しすぎ。ストーリーブッパしといてBLっぽい演出は入れてみるとか視聴者に媚びるポイントが違うだろw

・カヲルというキャラクターの使い方が本当気持ち悪いんだけど確かにシンジを絶望から引き上げる存在としてああして動かすしかなかったのも分かる。どうしたら良かったんだろな~。

・シンジは「世界を救えるんだ」とまるでヒロイズムに目覚めたかのような台詞を言ってはいけなかった。そこは「(自分が)やり直せるんだ」という台詞にしなければいけない。確かに彼は自分が壊してしまった世界を修復する気ではいるかもしれないが、その根源にあるのは過ちを許されたいという欲求や、再び自分の価値を認められたいというレゾンデートルへの希求、つまり自己本位な飢えである。彼に「セカイ」という認知があるのは、他者存在へ想像を及ばせる力を身に着けたからではなく、「個人の意思で世界はコントロール可能である」という未熟さ、視野の狭さから未だ抜け出せない「セカイ系」的発想に留まっているからだ。

・母・綾波ユイが初号機の制御システムになっていること、レイの雛型であることが冬月の口から明かされる。つまり初号機にシンジが乗ることは母胎回帰であり、父を憎みレイに惹かれるという構造はオイディプス的なそれである……それであったが、マリとカヲルというキャラクターの横入れ的投入によってそんな美しかった構造がもう無茶苦茶。

・カヲルにサードインパクトを知らされて絶望して脳内で「もう何もしないで」「エヴァに乗れ」の声がリフレインしているシンジのシーン、鬱期の庵野の苦悩に見える。エヴァを作れ、もう作れないっていう。

・マリの猫っぽいキモイ言動だけに留まらずアスカまで猫帽子だの2号機の猫みたいな変身だとか猫モチーフにまみれちゃった。庵野猫好きだな~。

・ヴンダーの生物的なデザインとかフォースインパクトの演出とかカッコ良すぎる。やっぱり「一度も観たことのない映像」を見せてくれるという歓び。

・旧エヴァって「エヴァチルドレンを筆頭として世界が左右される」っていう「セカイ系」のひとつの到達点で、だからこそ思春期にのめり込んだけど、Qはチルドレンと並走して大人もバリバリ動いてるのでただの「世界規模のドラマ」になってて、エヴァならではの青臭い幼稚な鬱屈みたいなのはもうあんまりないな。そこだけは逆に「アニメ臭く」なくなったと形容できるかもしれないけど、普遍的な構造に軽薄なキャラクターを置いても何も面白くない。気持ち悪い「セカイ系」構造にリアルすぎる気持ち悪いキャラクターを生かしてみせたから、旧エヴァはグロテスクな美しさで輝いていて、あんなにも胸に迫った。
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