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11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たちのkuuのレビュー・感想・評価

3.8
『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』は、メッセージ性は強い社会派作品を撮ってきたって云う若松って監督が、三島由紀夫が自決にいたるまでの日ーとその心中の葛藤を描き出すぅ!!ってプロットです。DVD で
『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』を見る前に(まだ予定だけど)と思い立ち、再度鑑賞しやした。俳優陣たちからは熱~い意欲が伝わった。決してクリソツとは云えないARATAやけど演説は真に迫ってたし、似てるかなって錯覚はありましたね~
三島の思想にイカれて共に割腹しよった森田必勝役の満島真之介も大味ながらピュアさが見えるし好感を持てました。
『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』と合わせて観るもよし、単発で観るもよしです。
偖、かなり脱線しますが。
三島って人は、ともすれば国粋主義者というよかUltraが付く超国粋主義って描かれる事が多々あるかなぁ。 
なら、三島は内心から超国粋主義者であり、日本の当時の現状を憂いていたんやろか?って疑問がいつもある。超国粋主義なら、(ファンの方には失礼ながら)とるにたらん三文野郎やと思う。
小生にゃ、どないしても三島の盾の会てのや、帝室制度に対する考えも、己の死の演出装置にしか思えへん。
三島は、初めての手慰み体験が『聖セバスチャン』やてのは有名で、
絵画『聖セバスチャン』
矢で射られ、苦悶する美青年の姿に、若き日の作家・三島はトキめいて、自らからの『ヰタ・セクスアリス(ラテン語で性欲的生活を意味するvita sexualis)』を告白するに至っとる。
彼は、セバスチャンの何に興奮し、美を見出したんか?
確かに素晴らしい作品やし、セバスチャンは中世から非常に信仰を集めた聖人で、
19世紀の世紀末ぐらいには同性愛の守護聖人って云っても過言じゃないかな。
オスカー・ワイルドも、ジェノヴァのパラッツォ・ロッソにあるセバスチャンの絵について、今までに見たモンの中で最も美しい絵だと語っとる!
『セバスチャンーー若い近衛兵の長ーーが示しよった美は、殺される美ではなかったか。
(中略)
彼自身もまたおぼろげに予知していた。
彼の行手にあって彼を待つものは殉教にほかならないことを。
凡俗から彼を分け隔てるものはこの悲運のしるしにほかならぬことを』
(仮面の告白)
三島の死に対する憧れはガキんころから一貫していたんやと思う。
せやし、ただの死じゃなく、何らかの形で英雄として、英雄の只中でなんらかに殉教することを望んでいたんちゃうやろか。
彼は自分を凡俗から分け隔てるために、現人神たるヒロヒトさんの復活を望み、
日本を憂い、
日本のために殉教し英雄になるという演出を着々と作り上げていたんやと小生は考えている。
三島は、自分の人生に対する死生観はAestheticism(耽美主義)が土壌にあると感じるし、ほんで至上の美とは彼にとって英雄の死ちゃうかな?
英雄の死てのは、英雄の状況の只中で死することではじめて美を構成する完結する。
どんな英雄であってもクソジジイになってもた英雄の状況を、過去として追憶の中死するのは、
美ではない。
つまり、殉死、殉教でなくてはならへん!(乃木希典がええ例かなぁ京都の伏見ら辺の年配者方々は神のように祭ってはった)
英雄は、そのさなかで死ぬんやからこそで、
つまりは老いさらばえ生きながらえんのじゃなくて夭折が説かれる。
せや、夭折の美を求めながら、三島は歳を取っていき焦燥感を募らせたんちゃうかなぁ!
せやから、彼は、英雄として散った西郷隆盛の49歳を夭折といえる限界と定めた。
乃木は歳を取り過ぎ、そやし、三島は自分の人生を完成させるためにや、死がなんとしても必要であったんやろし、
そのためには、天皇ちゅう宗教が必要であったんかなとも推測する。
また、それには、盾の会が必要であったんやろな。
ほんで、49歳までに自分が死ななければ自分のストーリーは完全なものにはならないと考えていたんやと自分は空想のなかで、三島の風景を見てる。
三島にとっての生とはいかに死を迎えるかということに収束されていたのであれば、葉隠れに惹かれていったのもよく理解できる。
武士道!
そうした日本的な精神論は三島の死生観と良く合致したんやろうなぁ。
それは、ヨーロッパの騎士道にもみられっかな?
ほんで、自ら死を決行する切腹はもっとも極限な美を作り出す殉教の形とも云える。
kuu

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