やまもとしょういち

スケッチ・オブ・ミャークのやまもとしょういちのレビュー・感想・評価

スケッチ・オブ・ミャーク(2011年製作の映画)
4.2
2023/09/09(1回目)
音楽のドキュメンタリーには、「映ってないもの」がよくあるのだけれど、この作品は捉え難い「歌」の本質のようなものに触れている感覚があって、ものすごく惹き込まれてしまった。

神歌や仕事歌、生活の中のあらゆることを歌ったり、叙事詩のような側面があったり、という宮古島の歌。神への、自然への、自らの置かれた理不尽な境遇への、祈りとも言えるような歌は、宮古島に生きる人たちのブルースであり、ゴスペルである。

実際、久保田麻琴は「虐げられた民たち」の歌として、宮古島の歌には、同じように新大陸発見以降に奴隷とさせられた黒人たちで言うところのブルースのようなエッジのある響きがあると本作のなかで語っている。

また久保田麻琴はサントラの解説で、レゲエとの相似性も指摘している。人頭税という理不尽な重税を課した薩摩藩を「バビロン(政府、警察、キリスト教会などラスタファリアン達を虐げるシステムや、その構成員。国家権力など、支配権を持つ団体や権力者、構成員たちを指す)」とするなら、ジャマイカにおけるレゲエにも通じるだろう、というのは納得。

「現実はつらく悲しいが、人生を楽しもうとするような部分がある」といったような説明がミャークヅツのシーンではあり、神事が日常と地続きにあることがその「歌」としての強さを担保している点から、精神性、あるいはスピリチュアリティの面から見れば、ゴスペルやレゲエとの近さを個人的には色濃く感じた。

加えて、宮古島の場合は女性が中心になっていることが重要な点で、そこは宮古島、あるいは南西諸島周辺の具体的な宗教性との関わりがゆえなのだろうかと思ったりした。

またサウンド、楽曲構成的な部分から見ると、本作で歌われる歌たちには、西洋音楽の拍節の感覚が入ってきていないため、テンポと構成の自在さがある。話し言葉の間やイントネーション、アクセントが歌を形作っており、和声の感覚があまりないので長調・短調もなく、それゆえに壮絶な話を歌っているのに、どこか楽天的な響きがあるのだろうか、など考えたりした。