SatoshiFujiwara

演劇1のSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

演劇1(2012年製作の映画)
4.4
演劇ファンのみならずアートに興味のある向きは絶対に観た方がよい。創作者にも鑑賞者にも示唆と刺激に満ちる鑑賞となるだろう。『演劇1』『演劇2』合わせて5時間42分、しかし終始引き込まれっ放しだ。

まずは平田オリザ演出における「具体性」には感動すら覚える。0.3秒遅くとか言い出す発声タイミング変更や声色、言い方、速度、立ち位置やなどの細かい指導&ダメ出し、椅子を置く位置の数センチ単位での移動。

『2』のロボット演劇シーンで平田は「僕にとっては、俳優は将棋の駒だと思っているので…」「心があると駄目なんですよ。気持ちを伝えようとするから。気持ちないんだもん。伝えたいこと何もないんだもん。」と冗談あるいは韜晦混じりに語る。

しかし、「心」はある。『1』ではこうも語る。「観客はイメージの共有のしにくいものを見たいわけです。普段見ることのできないものが見たいわけです。多分1番イメージの共有がしにくいのは人間の心の中だと思うんです。私たちが演劇や映画で感動するのも、人間の心の中をなんとなく覗き見ることが出来たときに感動するわけです。」

「見える」外側のカタチ(平田は皮と身の区分けができない玉ねぎを比喩に演技としての人格=ペルソナについて語る。演技の人格と本当の人格なるものの区分けはあるのか?)を徹底的に細かく作り込むことによって、そこに観客が自ずと自分/社会と演劇とのコンテクストを見いだせるような道筋を作ること。見える外側は心の反映ではある。しかし「心自体」は見えない。見えない物の確かな反映である「現象」を追い込むことによって、逆に観る人の「心」(内面と言っても良い)にイメージに呼び起こす。

平田には明確なイメージとそれを伝えるための具体的な方法論があるが、それは平田の考えやら内面とやらを「さあ観客の皆さん、こう感じて下さい!」などと押し付けるためにあるのではない。繰り返すが、具体性を追い込むことによって抽象性/普遍性を獲得する。

この平田一流の具体性は、主に青年団への演出を追った『1』から、演劇はいかに生き残るのか? というワークショップなど社会への働きかけを追う『2』に連結する。ここで平田は、その本心は「演劇のための演劇」にあるとなんとなく匂わせながら、演劇をより開かれたものに/社会にアピールするために/そして自分たちが食って行くために(青年団事務所の壁にはブレヒトの『三文オペラ』から「まずは食うこと、お次に道徳」との名文句が掛かっている)何をして行くか、を身をもって具体化していく。ここでの平田は類稀なる実務家であり、その姿はアーティスト然としたイメージ(まあこれも紋切り型ではあろうが)の間逆である。

ケース裏にある「鑑賞した後は、目の前の世界が変わって見える」との文句はあながちオーバーでもない。ちなみに、両作ともラストがこれまた上手い。特に『2』の想田監督の企みが最高。あれで終わらせるか(笑)。

「チェーホフ以来、滅びゆくものを愛情を持って描くのが劇作家の仕事だと思っているので、そこに1番愛着があるのは確かですね。芝居を観て元気になったりとかして欲しいと全く思ってないから。」

改めて、想田監督のコンテクスト構築・編集は見事(捻りも何もない散文的な映画の題名は想田が尊敬するワイズマン的だ。まさに「観察映画」的)。平田&青年団の拠点であるこまばアゴラ劇場に場所が戻る際の井の頭線と劇場前の反復ショットの安堵感。後は猫だね。パリでも猫(笑)。
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