故ラチェットスタンク

バッファロー’66の故ラチェットスタンクのレビュー・感想・評価

バッファロー’66(1998年製作の映画)
4.2
『おかえりなさい。』

突き刺すような批評性に対して、とても穏当に纏まったオチで安心した。
ビリーの認識が変わるあのラストの清々しさ、ド感動した。

「観たことない撮り方で良かった〜」的な意見が散見されて期待していたら、
・コラージュによる背景説明
・ポラロイド写真調のフラッシュバック映像
・歌唱場面での演劇的な照明使い
・シンメトリーのPOV食事シーン
・唐突のマネキンタイム
・長回しプリクラ

と、粗削りながらに本当に面白い映像表現の畳み掛け。フィルムに刻まれたノスタルジーと合わせて、とても眼福だった。

冒頭のトイレを探す〜レイラ誘拐の下りですぐに、ビリーは周囲に恵まれなかった孤独な男だと気づかされる。(「空白」など観賞後であれば尚更)

しかしながら常軌を逸した行動自体への苛立ちに感情移入が勝つのだろうかと心配していたところ、
・やや露骨な毒親描写
・ウェンディへの反応
・レイラの視点への感情の代入
で、終わる頃にはこの超不完全人間にまんまとのめり込まされた。

ビリーに対して、「ひどい環境を相談できる相手がいなかった」というのは、ボーリング店員との信頼関係からして、個人的にはナシな視点。
「相談できる相手がいない」のではなく、「相談する」という選択肢を持って育つことができなかったということではないだろうか。

置かれた状況の不遇さを知っていながら声を上げることが出来ず、更にはその色へと染まってしまう人物像。
私もビリーに(家庭環境だけで無く性格的にも)少しだけ似たり寄ったりなところはあれど、声を上げることはできているので、その面はかなり恵まれたのだなと周囲の人に感謝したくなった。
「客観視が出来ないこと」の残酷な写し方が素晴らしい。

レイラの視点に感情を置く我々は、ビリーの赤裸々な弱さを目の当たりにする。
劇中の様々なイベントの中で浮き彫りになった弱さへ寄り添い、レイラと共に受け入れる、という構造は素晴らしい。

他方、レイラ自身は観客のための器でしかなく、一歩引いた視点で見てみると彼女の人物像が都合が良く聖女的な部分は少し気になってしまう。

どうしてあのような大きな愛情を持っているのか…
車の汚れなんかにヒントがあるのか?

その辺は考えても分からずじまいだったのだが、このレイラが「私自身があの状況に置かれたらどうするか」を考えた時と大体同じようなことをするので、
・素直に従い、最善を尽くす
・抱えた問題がわかると助けたくなるなど
どうにも他人事にもなれず、どうしたものかと思った。(ビリーの童貞感も殆ど私なので、「この2人私じゃないか」とおこがましくも勝手に思った。)

2人のやりとりの愛おしさ。ラストまでずっと観ていられた気がする。

それと、演出は独創的で良かったけれど、独創的でおしゃれなだけであまり意図があるとは思えなかった。
「目を惹く映像」というだけで当然100点なのだが、批評的になるならもう少しストーリーある表現になっていても良いと思う。

特にミュージカル場面は誰の気持ちになっていいのかいまいち分からず。
ビリーの主観かレイラの客観かややどっちつかずな印象はあった。
両方描いているのだとしたら切り替えがあまりスムーズではない。

〜ラストについて〜

冒頭と最後でビリーの行動自体に成長は無い。
衝動的で直情的な行動。
しかしその本質は「自己防衛」から「他者への愛に基づいた自己愛」へ変わっている。

他者からの視点でなく、本人の感触へ重きを置いた写し方
積み上げた110分を信じての演出で素晴らしかった。
きっとこれからも浮き沈みを繰り返しながらも進んでいくのだろう。頑張れ。

最後になったが、現実的にレイラのように自分を理解してくれる人は簡単には現れないだろう。
ギャップに打ちのめされる人がほとんどだ。
今作はそういった方のための映画だ。

全人類に届けとは思わない。
悶々とした感情を抱える私を筆頭とした世の中のビリーたちに届けば良い。
どこまでの優しく寄り添う今作に身を預けることも、悪いことではないはずだ。

しかし、弱さを受け入れて抱きしめてくれる人が、もしも現れたなら、決して手放さないように。