ヨミ

千年女優のヨミのネタバレレビュー・内容・結末

千年女優(2001年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

ほんとうにすごかった。目を見張るような動き、表現がずっと続き、あとふつうに泣きました。

ようやく観れた、という思いが強い。
別に観ようと思えば観れたのだけど、なんとなく観れずにいたのだった。昨秋に『パーフェクトブルー』を観逃して、今回は流石にと重い腰(物理)を上げて、まだやってる映画館を見つけて行った。

『パプリカ』もそうだが映画を撮るということと夢、そして記憶(意識?)の強い結びつきに貫かれている。
記憶のあやふやさ、夢の突拍子もなさが、主人公の千代子が出演した映画のショットを無造作に繋げていくように表現されていく。様々な映画の色々なシーンを雑多に繋げたような演出が続いて、それが映画のなかなのか千代子の記憶なのか曖昧なまま物語が展開する。しかし千代子は女優である以上、現実と虚構を同時に生きるのである。千代子にとって記憶をばらばらと思い出していくこと(それは夢の操作だ)は、出演作(の記憶)をモンタージュしていくことになるだろう。それまでに使われていた映像が終局で一気に反復され、それまでに観たものと異なる意味を持ち始めるさまは、(近年に使われるかを予告するという意味ではなく、既視のものが異なる意味を帯びて再登場する意味において)まさしく伏線として最大限に機能していた。
あるときから千代子に取って憑く老婆は、千代子の不幸を予言し、負のイメージとして千代子にたびたび幻視される。終盤になって老いた千代子はそこに自分を重ねるが、むしろ老婆は糸車を回し続ける存在であることが重要だろう。老婆は千代子の無限の旅の、文字通り糸を引くものでありながら、糸車は端的に回し続けられるフィルムである。女優になることは、フィルムというひとつの永遠にその身を焼き付けることであり、つまり永遠を生きることとなる。複製され、反復されるフィルムによって「鍵の君」を追い続ける千代子の旅は無限に続けられる。今日もこうしてフィルムが回り上映が始まる。我々観客は千代子の終わらない旅を開始させる。フィルム=映画=老婆は千代子の身体を繰り返し繰り返し運動させ続けるが、それなくしては自身も存在し得ない。老婆の千代子への愛憎はそこに集約される。

さて、本作のことをほとんど調べずに行って、まあ今敏だし音楽は平沢進だということくらいは当然として、作監やキャラデザにいまをときめく本田雄がいることに驚いた。まあいまをときめくって言っても『君たちはどう生きるか』で再注目されているだけで、『電脳コイル』などアニメファンからするとぜんぜん超有名アニメーターであり続けているのだけど……。
序盤の千代子が雪のなか走るシーン、転んで手をつくところ、ほんとうに驚いた。あんなに心地いいショットや動きを観る、そのこと自体に喜びがあった。

映画館で観れてよかった。
ヨミ

ヨミ