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サニー 永遠の仲間たちのケーティーのレビュー・感想・評価

サニー 永遠の仲間たち(2011年製作の映画)
4.4
青春の頃に思い描いたように生きることができなくても、人は強く、輝いて生きていける
そんなことや、仲間への感謝の大切さを教えてくれる映画


この映画を初めて観たとき、現実の厳しさを描いているのに、それでも生きようと観るものを思い立たせるすごい映画だなと感動した。
だから、日本版を観たとき、オリジナルはもっとヒリヒリしたものが伝わってきて胸に迫る映画だったけど、なぜそこが違うのだろうと疑問に思った。そこで、今回改めて観るとその理由がよくわかったのでまとめてみる。

まず、オリジナル版の最大の特徴は、現実の女性の悩みをかなり網羅しているということである。列挙すると以下の通り。


・お金はあっても家族仲は希薄で孤独を抱えている
・実業家として資産はあるが、独身で家族や深い付き合いの友人がない
・夫がダメな奴で借金取りから逃げ回った過去があり、現在も売れない保険の外交員をしている
・整形美人になり、見た目はいまいちだが金持ちの夫を捕まえたものの、浮気されている
・団地に住むような地味な暮らしだが、姑がうるさく生活が制限されている
・親の借金で大学に進めず、水商売を仕方なくしていて、なおかつアル中である


必ずしも完全に一致する悩みはなくとも、広い意味で捉えれば、何かしらどれかの悩みと似たものを持っている人は多いのではないだろうか。だから、現実に生きることは楽ではないということをリアルに描き出すのではないかと感じた。

また、題材がリアルなだけでなく、照明を巧みに使った演出のコントラストも終始秀逸で、わかりやすいところでは、序盤の朝食の準備シーンなど、料理番組か!と突っ込みたくなるくらいショーアップする。しかし、その直後に、(日本版ではカットされているのだが)、主人公が娘や夫には品数の多い手の込んだ朝食を出しておきながら、二人が家を出た後、自分は一人でトーストだけの簡素な朝食を食べるシーンを映すのである。たしかに、専業主婦であれば、お弁当づくりもあるし、朝は忙しくて家族と朝食はとれず、ようやくみんなが出て行ったあと、食べる。そして、そのときに寂しさを感じる。自分の母親もたしかにそういうところがあったなと思い出し、これは、とてもリアルでうまい演出・構成だなと思った。おそらく、今の日本のドラマに足りないのは、この視点だろう。日本版は、専業主婦の主人公は家族と一緒に食事をしている。これは、おそらく専業主婦のリアルを知らず、オリジナル版がもっていたシーンの意味を理解していなかったとしか思えない。

そして、一人でトーストを食べる主人公が、ふと外を見ると、登校する女子学生が目に映り、昔を懐かしみ、物語が始まる。ここで大事なのは、オリジナル版は現実の悩みがあって、そこを起点に過去を描いていくということだ。日本版はこの現実のリアルな悩みが作品の起点であることを忘れ、90年代を描くことに注力し、現代とのリンクが弱まってしまっていることが惜しまれる。

これは全体にもいえる。そもそも本作の骨組みは、根底は(良い意味で)子どものときの精神のまま大人になっても暮らしているのに、それがうまくいかない現実を丹念に描写していくことで、観客に訴えかけ感情移入させていくという仕組みだ。一番分かりやすい例は、チャンミの怒られ方で、チャンミは学生時代から二重のアイプチばかりにこだわって勉強がいまいちなことを教師に怒られている。その様子は、可愛らしさもあって、学生時代は、みんなに笑われながらも愛される要素でもあるのだが、大人になると、保険の外交員としての成績が悪いことを上司になじられ、目だけは力がありますがと嫌味を言われるのである。つまり、怒られている要素は同じなのに、その意味合いの切実さが変わり、切ないのである。日本版の批判ばかりになってしまって恐縮だが、日本版は、このシーンを改悪してしまった。ブラック企業たから~とただ単発の上司の不満の台詞になっていて、前後の文脈とリンクさせて、ここの台詞はこういう構成の中で、どういう意味合いをもった台詞でこういう内容を言わせる、それでは何と言わせようというロジックが組み立てられていないのだ。韓国版は、ここがくどいくらい秀逸に組み立てられていて、台詞・シーン・演出が計算しつくされている。

私が思うに、先にあげた専業主婦のリアルな描写のように、現実のリアリティとドラマをどうつなげるかという視点と、チャンミの台詞に見られるように台詞やシーンの意味を深く設定し、全体を緻密に構成していくという手順。これが、最近の日本のドラマ・映画で一番弱くなってしまっているところなのではないかと、考えさせられた。

また、それぞれの子ども時代の個性と現実のリンクは、それを効果的にするために、また話自体も弾むように、メンバーそれぞれの個性がうまくつくられている。特に本作の女の子たちは、各々が逆説的な要素をもっていて、それが面白さにつながっている。列挙すると、以下の通りだ。


・素朴そうに見えて男好き
・きれいなのに男勝り
・スカウトされるほどの美人なのに、クールで芸能界には全く興味がない
・おデブだけど、美容に一生懸命
・文学少女だけど、一番狂暴なメガネっ娘
・口は一番汚いが、実は根が素直
・ぶりっこなのに、不良とつるんでいる


それぞれの人物が立っていて、なおかつ強みと弱みを補うように構成されていて見事だ。さらに、こうしたパーソナリティーに加えて、家庭環境など経済環境も匂わせる台詞があり、学生時代にお金のあった子ほど現代で落ちぶれているのが何とも切ない。

そして、極めつけは終盤手前のビデオレターで、内面は現代になっても変わっていないのに、将来を語るビデオレターを見せることで、誰一人として夢が叶っていない現実を主人公と観客にわからせるのだ。その切なさは、言葉ではとても言い表すことができない。(ちなみに、このビデオレターも、日本版は容姿のことばかり話していてオリジナルと同じ効果を生み出していない)

しかし、この終盤手前の切なさや悲しさがあってもなお、ラストで彼女たちが生きることを選択するから、かっこいいのだ。ここは、曲の歌詞もあいまって、リーダーへの感謝、仲間との愛、自分の人生への確かな自信(たしかに色々あったけど胸を張って生きていこうという思い)が伝わってきて感動する。また、本当の結末で多くを語らず、直感的に観客にわからせるのもいい。全くラストを語っていないのかと思えば、エンディングの絵でその後のシーンを少し見せて想像させる工夫もうまく、この絵を使うという手法もまた、本編の主人公のエピソードとリンクしていて見事なのだ。

さて、ここまで書くと何と暗い映画なのだろうと、未見の方は思うだろうが、本作は必ずしも全編にわたって暗い映画ではなく、緩急があり、楽しめるエンタメ作品に仕上がっているのだ。

本作は音楽映画、さらに言えば、ミュージカル的な映画でもあり、日本版が小室哲哉さんの音楽をフィーチャーしたように、音楽が映画に彩りを添えている。

また、ケンカシーンで、機動隊と若者の衝突が、少女たちのケンカと交わって進む演出は、ミュージカル「ビリー・エリオット」のワンシーン(“Solidarity”というナンバーで炭鉱のストライキとバレエ教室のシーンを同時に見せる)を思わせる。「ビリー・エリオット」は舞台だが、映画にもこういうやり方があるのかと面白かった。シーンとして、すごくわくわくするのだ。

このように、エンタテインメント作品として、音楽やアクションも盛り込んでいて、作品自体に緩急もある。メインは、ヒリヒリとする現実だが、それでもなお、ラストはさわやかで人間讃歌で終わる大好きな作品だ。

※以下は、ネタバレになりうる内容があります。









そのほか細かなシーンでうまいと思ったところを列挙する。

主人公が仲間と出会う場と、ラストの事件の現場がともに、食堂であるという場の設定の仕方がうまい。
なお、ここも日本版は、ラストの事件を全然関係ない場所になぜかしている。

本作は、学生時代のエピソードと仲間との再会が同時に描かれるが、さらに、主人公の家族の再生の物語にもなっている。これは、とても大切なポイントで、仲間との再会を通して絆の大切さを改めて感じた主人公は家族ともう一度向き合うというとても大事なドラマなのだが、なぜか日本版はこの家族のエピソードをなくしてしまった。また、主人公が家族の再生の始まりを実感し、幸福を感じていたときに、重要な電話が鳴るという構成になっており、そこの対比・落差のつけ方もうまいのである。ちなみに、日本版は過去の不幸なエピソード→現実の不幸なエピソードという流れになっており、なんでこんな平坦な構成・演出にしたのか謎である。

オリジナルのベタな演出のうまさは随所にあり、挙げればキリがないのだが、特にリーダーの演説シーンは超ベタだけど、ここがいい。この演説シーンは、何といっても、ラストにつながる重要なシーンになっている。しかし、これも日本版はなくしてしまった。たしかに、なくしても成立しなくもないのだが、どうして最後無理してでもみんなが集まるのか、その説得力はオリジナルのほうが断然ある。

主人公の恋が始まるところと破れるところでのヘッドホンの使い方が秀逸。想いを寄せていた人が他の女性と関係をもっているときに、小道具や話す内容など、いかに主人公特有の傷つくポイントをつくるかが重要なのだが、ヘッドホン一発でわかるので、観る側が感情移入できるのだ。繰り返しのようになってしまうが、日本版はここでも、なぜかヘッドホンをカットしてしまった。代わりの小道具があるわけでもなく、たしかにシーンとして成立してるのだが、安易な作りになってしまった感は否めない。小道具のよさは説明しなくても目で理解できるので、考える前に理解でき、感情移入しやすいのだ。